〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜
2月の記事「甦る!商大サッカー部の古写真」の続報。
ある資料から山田久寧(ひさやす)先輩の商大卒業後の軍歴が判明した。
「一橋いしぶみの会」の竹内雄介氏(昭49卒)が紹介してくださった
『五分前の青春 第九期海軍短期現役主計科士官の記録』である。
大日本帝国海軍で予算編成や武器・食糧の補給などを担う主計科要員を
育成する「海軍経理学校(明治40年創設)」が東京・築地にあった。
第二次大戦期、多くの大卒者がこの軍学校に入校し、わずか4ヶ月ほどの
即成教育の後、「短期現役主計士官」として戦地に送られた。
上述書は海軍経理学校の九期生たちが戦後に綴った文集である。
その中に山田先輩の写真(3列目の右端)、名簿にも名前があった!
名簿から推察するに、山田先輩は昭和17年(1942)9月に商大卒業後、
三井化学(内定していた?)には就職せず、即海軍経理学校に入校。
卒業後は21設営隊としてソロモン諸島最大の島、
ブーゲンビル島(現在はパプア・ニューギニア領)に配属され、
終戦の年の12月26日、帰国することなく現地で亡くなった。
驚いたことに、山田先輩とサッカー部の同期だった居川達一先輩と
主将の村木杉太郎先輩も海軍経理学校の九期生だった。
卒業後、居川先輩は台湾に赴任。村木先輩は駆逐艦「朝凪」の
主計長として輸送船団の護衛にあたっていたが、昭和18年に
奇遇にも山田先輩と出逢ったと『五分前の青春』に記している。
“昭和18年の末まで、横須賀・トラック・ラバウル航路はなかなか盛んで、
従って第二海上護衛隊の中心的存在であった朝凪は多忙を極めたのであった。
そのなかにはラバウル経由でブーゲンビルに向かう設営隊船団の護衛を
してみると、東商大同期の親友山田久寧がその設営隊の主計長であることを
知ったようなケースもある。連絡をとってパラオ仮泊中上陸し、
一夜の歓をつくしたことは思い出に深く残っている”
ブーゲンビル島は日本から5200キロも離れた南太平洋にあり、
四国の半分くらいの大きさの島である。この島に昭和18年に赴任したと
思われる山田先輩は、終戦までの2年近く、どういう状況にあったのか?
すでに昭和17年8月からソロモン諸島で連合軍の本格的な反抗が始まり、
日本の戦況は悪化の一途を辿っていた。昭和18年4月には
連合艦隊司令長官の山本五十六がブーゲンビル島の上空で戦死。
昭和19年に入ると玉砕相次ぐ状況となり、ソロモン諸島は完全に
後方に取り残され、補給や救援の道を絶たれてしまった。
昭和18年6月からブーゲンビル島で任務にあたっていた九期生の
高松敬治氏は、当時の凄惨な状況を『5分前の青春』に綴っている。
“昭和十九年のはじめから食糧の欠乏がひどくなってきた。
甘藷(さつまいも)畑をつくるにも、うっ蒼たるジャンブルを
ツルハシとスコップで開墾する原始的方法以外になかった。
甘藷は毎食サイの目に刻んで湯呑み食器に盛りきり一ぱい。
副食は甘藷の葉の塩汁ばかり。漁撈隊を編成して魚をとることも試みたが、
月に二、三回干し魚が食べられればいい方だった。
食べられそうな雑草はなんでも食べた。ネズミもセミもムカデも食べた。
開墾しているときに、小さなトカゲを見つけると、争ってとらえて、
引き裂いて口にほうり込むというありさまだった。
マラリアがひどくなれば脳をおかされる。
赤痢にかかれば下痢がとまらず栄養失調になることを免れない。
すっかりやせ衰えて杖をたよりに歩く姿は、さながら幽鬼のごとくであった”
山田先輩も同様の状況であったことは想像に難くない。
戦闘体験など一切なかった大学を卒業したばかりの若者が、
主計士官として何十人もの部下を率いながら、
このような極限状態に追い込まれたのである。
胸が痛いなどと軽々しく書くのもはばかれる。言葉がない。
そして、終戦。
赤道直下のナウル島で戦っていた九期生、宮部眞一氏の寄稿に
山田先輩の最期が記されている。
“敗戦降伏によって、われわれは豪州軍に捕らえられ、
ソロモンの戦場であったブーゲンビル島に運ばれて、タロキナの奥地の
キャンプから、さらにブインの沖にあるファウロの島々に分散収容された。
そこは島民も住まないマラリアの巣窟で、痩せ衰えた敗戦の将兵
(約18000余名-ソロモン地域および赤道以南の太平洋諸島)は薬を失い、
強制労働と1500カロリーの配給食糧に苦しみながら、
全員重症マラリアに罹り、その後三〜四ヶ月間に約半数以上が死亡した。
ここで同期の山田久寧主計大尉(24班)は病死された”
もう一度、久しぶりに『60年史』のページをめくってみた。
迂闊にも山田先輩、そして同じく戦地で亡くなった水島行先輩に、
昭和17年9月卒の同期が追悼文を寄せていることに今更ながら気づいた。
また昭和17-18年のサッカー部と戦争の関わりをまとめた寄稿も見つけた。
それらを抜粋し、以下に掲載する。
「戦争とサッカー部」・・ 安田興三郎(昭19.9月卒)記
昭和14年春、私がサッカー部に入った頃は、まだ日本も平和だった。
なにしろ私が「モロッコ」を観てカツキチになったのが1年後の春で、
当時は往年の欧米の名作はいくらでも名画座で観られたのである。
それもつかの間、16年の夏には早くも米画の上映制限が始まって、
無味乾燥な国策映画が巾をきかすようになった。
16年12月6日に浦高戦に備えて剣道場に合宿したが、
2日後の4時限目、講堂に集められて対米宣戦布告を知らされた。
大本営発表のラジオ放送に無邪気な拍手を送ったりしたものだ。
以下当時の日記からサッカー部に与えた戦争の影響を拾い書きしてみる。
【昭和17年】
4月7日 入営する早野広太郎先輩(昭16.4月卒)を東京駅にて見送る。
4月15日 水島行 甲種合格。本3、坊主頭ふえてかわいらしくなる。
4月17日 敵機、帝都に初空襲。
4月28日 宮沢力 甲種、山田久寧 第1乙種。
10月29日 折下章(昭16.4月卒)・松岡義彦(昭16.12月卒)両先輩、
軍服姿でグランドに現れる。(31日 折下先輩、満州へ)
【昭和18年】
1月27日 村木杉太郎・居川達一・山田久寧3海軍主計中尉の送別会
1月31日 出征先輩の武運長久祈願のため鶴岡八幡宮参拝
7月14日 故米山大三先輩宅弔問(昭15卒)
・・2月、ガダルカナルにてマラリアで戦病死の由
8月10日 一橋勤労報告隊(本科生のみ)北海道へ勤労奉仕に出発
・・1ヶ月にわたり千歳飛行場整備の土方作業で病人続出
9月26日 学徒体育大会はすべて中止となる。
10月2日 12月1日入営と発表されあわてる。
10月20日 兼松講堂にて出陣学徒壮行会。
・・国立音楽学校生徒の合唱、印象的
12月8日 開戦2周年記念日、この日の未明、妹結核にて死す。
我、喪を秘して夕刻、町内会の日の丸に送られ、一路横須賀へ。
*名前表記:筆者と山田先輩の同期、および年表に記載された先輩方
「水島行君を憶ふ」・・ 村木杉太郎(昭17.9月卒)記
昭和19年の初夏の候だったと思う。私が駆逐艦乗組を終えて
軍需省の軍需監理官として大阪勤務となって間もなくの或る日曜日、
夙川の下宿へなんの前ぶれもなく、全く思いがけず水島からの電話が
かかってきた。上本町6丁目の近鉄の終点にいるとのことであった。
早速道順を教え、時間を見計らって阪急線夙川の駅に出迎えた。
彼は少尉の襟章をつけ鉄兜背のうを背負って完全な武装で
南方に向かう途中立ち寄ってくれたのであった。
その晩は下宿の小母さんに頼んで酒の用意をしてもらい、
深更まで飲みかつ語らったのであった。
話は、最近の軍隊生活から始まったが、
落ち着くところは勿論サッカー部時代の思い出であった。
翌朝連れだって下宿を出て、夙川の駅頭で、彼は神戸に向かい、
私は大阪へと左右に別れた。それが二人の最後の別れとなった。
彼は間もなく門司から乗船、船団を組んで南下し、
比島沖で敵潜水艦の攻撃を受け、乗船は沈没し、
彼は若い一生を終わり再び遭うことのない世界へ行ってしまった。
水島行君とは予科の5組で入学当初から一緒であり、
教室では同じMのために前後して座り、教室を出れば部室、グラウンドで
また一緒という仲であった。彼は浜松一中時代からサッカーの選手であり、
我々同年の仲間の唯一の経験者として最初から綺麗なインステップキックが
できる新入生であった。
彼は人のことは気にせずひとりでさっさと実行するようなところもあったが、
一面何となくさびしがり屋のところもあった。
水島家の末弟としての育ちから滲みでるものであったろうが。
予科入校当初から煙草を吸い、帽子を一寸斜めにかぶり、
一見遊び人風の姿勢もあったが、根は純情であり、
サッカーでは全身をぶつけていくといった激しい情熱を燃やしていた。
昭和15年、本科1年の時の部誌には次のように記している。
“日ざしはもはや夏の合宿を思い起こさせる。汗が目に入り、土埃は渦をなして
きりきりと舞い上がる。たちまちにして泥人形ができた。ボールを追う格好、
蹴る姿、意気と熱、偉大なるかな蹴球の姿よ。リアリストもロマンチストも
またデレッタントもペシミストも総てが詩人となって、真を、美を追求す”
学生時代の彼の心の中には、怠惰な傍観者的心情と、サッカーに打ち込む情熱と
それらの生活を冷たく見つめる批判者としての心情の三者が常に同居し
葛藤を続けていたのではないかと思われる節がある。これらの心情の総てを
サッカーに燃やし尽くして若くして逝った水島のことを思うと
今も胸がしめつけられるような気持がする。ご冥福を心から祈る。
「山田久寧君のこと」・・ 藤塚亮策(昭17.9月卒)記
君は卒業と同時に海軍経理学校に入校、士官となってからは南方に転戦、
終戦をブーゲンビル島で迎えられた。祖国帰還に当って同島の南端から
北端の集結地まで人跡稀な熱帯のジャングルを部下を引率して山越えの途中、
病に犯されて壮烈な戦病死されたことを、小生復員後に伝え聞いた。
私共、当時としてはもとより死を覚悟して戦場にのぞんだわけだが、
同君の死が終戦後のことだけに返す返すも残念で堪らない。
君は私と同じように余り器用な方ではなかったが、それを補って
5年半の蹴球部生活を全うするために人一倍練習に励むと共に、
サブとして部の礎たらんと自らに鞭打つ責任感の旺盛な男だった。
敗戦に打ちひしがれた部下全員を一日も早く祖国に連れ帰るために
己れを捨てて、恐らくは無理に無理を重ねた結果が
彼を還らぬ人にしたものと思われる。
彼は首が長くネックとアダ名されていた。首を振り振り疾走するさま、
ライトウイングとしてカマキリが獲物を襲うに似た形でゴールに向かって
ヘディングする様子が、昨日のことのように想い浮ばれる。
彼のプレイぶりには猪突なところがあったが、心情は大変デリケートで
慎重だったと思う。彼は予科1年の夏の合宿から入部したが、それまでの間、
3つの部を遍歴するが納得がいかず、生れて初めて経験したクラスチャンでの
サッカーの試合出場を通じて蹴球部の存在を知って入部し、辛い練習と
先輩方にもまれているうちに次第に、己れの青春を注ぎ込む場所はここだと
体得するようになったと述懐していた。
彼はまた人一倍純情な男で、路傍の小さな花にも愛情を注ぎ
「行く末は誰が肌ふれん紅の花」とつぶやいていたのが耳に残っている。
また大変な勉強かでもあった。荻窪に下宿していたが、練習のドロンコ姿とは
打って変りキチンとした着物姿で正座して読書に励んでいた。
最初のうちは受験勉強から解放されて選択の自由が得られたこともあってか、
文学・社会科学・哲学の各分野に亘って乱読・多読していたようだが、次第に
的を絞って哲学系を主体としたものの精読と沈思へと移り変って行った過程が
彼の書棚に並ぶ蔵書からもうかがい知ることができ感心したものだった。
ともあれ、商大蹴球部の大きな支えである多くのサブの中でも
彼は傑出したサブの一人であったと思う。
まもなく終戦から数えて78回目の夏を迎える。
戦争で命を落とされた先輩、
そして・・サッカーに青春の情熱を捧げ
ア式蹴球部100年の歴史を支えてこられた先輩方に、
改めて、心からの哀悼と敬意を捧げたい。