酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

写真で辿る小平の記憶 ❷

2022年1月15日  タグ: 沿革   コメントする

昭和40年代、小平キャンパスは大きな変革の時代を迎える。
まず昭和41年7月1日から、西武多摩湖線の最寄駅が変わった。
それまでは国分寺駅から1つ目の一橋大学駅(戦前は商大予科前駅)だったが、
2つ目の小平学園駅と共に撤去され、両駅の中間点に現在も使われている
一橋学園駅ができたのである。写真で辿ってみると・・







昭和42年から小平キャンパスの新築・改築ラッシュが始まる。
戦前に建てられた木造の体育館、図書館、一橋寮、弓道場が取り壊され、
わずか数年の間に次々と鉄筋コンクリート造の建物に変わっていった。
その凄まじい変貌は、昭和41年と47年の「建物配置図」を比べれば一目瞭然。
小平キャンパスは新時代を迎えたのだ。

昭42(1967)合併教室(1号館)
昭43(1968)新学生食堂(生協食堂、後に小平カフェテリア)
昭45(1970)新体育館 / 新館教室(2号館)/ LL教室 / 新図書館 / 職員宿舎
昭46(1971)新柔剣道場
昭47(1972)4階建2棟の新一橋寮






昭47(1972)
新一橋寮が竣工したこの年、もう1つの変化がある。
学生控所(部室)に並ぶ食堂の一部が取り壊され、生協に改築された。
昭和43年に新しい学食ができたので必要がなくなったということか。


昭48(1973)
新体育館と新一橋寮の間に50mプールができた。
戦前に造られたプールは写真で見る限り短いので、25mだったようだ。
さらに弓道場が撤去された跡地に、プレハブの部室が設置されている。
課外活動の部が増え、部室が足りなくなったためか?
アメフト部のプレハブ部室もあるので、活動を始めたのはこの頃か?
また、本館の外壁が黒っぽい色に塗られている。
学園紛争の頃、落書きがひどかったので塗られたという話もあるようだ。
いろいろわからないことが多いので情報を集めたい。




昭45(1970)〜 昭46(1971)
少し年度が戻るが、小平グラウンドも大きく姿を変えた。
それまでのサッカー場は玉川上水に並行してタッチラインが引かれ、
ゴールは東西に設置されていた。東ゴールの隣にあるシュート板は、
昭和28年にOB有志の寄付によって設置されたものだが、
およそ10年後にボロボロになり、昭和41年に修復されたようだ。





「建物配置図」には記載されていないが、OB諸氏の記憶によれば、
昭和45年の暮れから46年の春にかけて大規模な改修工事が行われたという。
ホッケー場は、撤去されたテニスコートの跡地に移動。
サッカー場は90度向きが変わり、ゴールは南北に設置され、
それに伴いシュート板も南側に新設された。
人工芝になった現在のサッカー場は少しワイドになったが、
新しいシュート板の位置は、50年前とまったく変わっていない。





以下、次号に続く・・・

写真で辿る小平の記憶 ❸

2022年1月14日  タグ: 沿革   コメントする

昭和50年代も変化が続く。
まず、昭50(1975)の「建物配置図」を見ると、
新しいテニスコート(6面)とバレーコート(4面)が設置されている。
そしてこの年以降、サッカー場とホッケー場が明記されるようになった。
理由はわからない。小平グラウンドは体育の授業も行われていたので、
大学側としてはサッカー部とホッケー部の専用ではなく、
他の学生も使用する運動場という認識だったのかも知れない。
なぜこの年から明記されたのかという疑問も残る。考え過ぎか・・

昭55(1980)
プレハブ部室がすべて撤去され、その跡地に福利厚生施設と合宿研修施設ができる。
その用途は不詳。また部室棟に並んでいた生協が取り壊されている。
福利厚生施設の1階に生協ができたのか?
合宿研修施設とは何か? 合宿で寝泊りできる部屋ができたのか?


昭57(1982)
戦前は寮の一部として、戦後は部室として使われ続けた旧学生控所が取り壊され、
新しく鉄筋コンクリート造2階建の課外活動施設(現部室)ができる。





そして、時代は平成へ。
30年の歳月は小平キャンパスを大きく変えたが、それで終わりではなかった。

平成8年(1996)5月に小平分校が廃止となり、授業が行われなくなった。
これを契機に小平キャンパスと学園西町は、サッカー部員にとって
練習や試合をしに行くだけの場所になってしまった。
昭和世代にとっては寂しい限りである。

平成11年(1999)から平成15年(2003)にかけて、
昭和の面影を宿す建物は次々と消え、小平国際キャンパスへと生まれ変わる。
その過程を年度順に記していくと・・

平12(2000)
特別教室や講堂が撤去された跡地に如水スポーツプラザができる。

平13(2001)
本館、1-2号館、語学ラボ、バレーコート、テニスコート、ホッケー場が撤去される。

平14(2002)
本館の跡地に国際共同研究センターができ、福利厚生施設が国際交流プラザになる。

平15(2003)
キャンパスの中央部に国際学生宿舎A〜E棟と小平国際ゲストハウス、さらに
ホッケー場の跡地に独立行政法人 大学改革支援・学位授与機構のビルが竣工。
そして5月、小平国際キャンパスの完成記念式典が挙行された。

平成元年度と平成16年度の「建物配置図」を比べてみると
その凄まじい変貌ぶりがよくわかると思う。

以下、令和3年(2022)現在の小平キャンパスの撮影が可能になり次第、
追記するつもりである。お楽しみに。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

発掘!小平キャンパス建物配置図

2021年12月20日  タグ: 沿革   コメントする

『100年史』編纂の終盤に、貴重な資料に出会った。
昭和8年から現在に至るまで毎年発行されている
小平キャンパスの「建物配置図」である。
『100年史』に使用した小平キャンパスの航空写真の撮影年が
ある程度推測できるし、写っている建物がそれぞれ何であるかが
一目でわかる資料で大いに助けられた。
戦前の商大予科時代の航空写真と「建物配置図」を並べてみると・・

【昭和9年(1934)卒業アルバム】    【昭和8年(1933)商大一覧】

【昭和11年(1936)予科の精神】    【昭和12年(1937)商大一覧】

この資料は下記のウェブサイトからダウンロードできる。
【一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR】(クリックして移動)

【資料名】
*東京商科大学一覧:大正9年~昭和17年
*東京産業大学一覧:昭和18年~昭和20年
*一橋大学一覧:昭和24年~昭和43年
*一橋大学要覧:昭和38年~平成元年
*一橋大学概要:平成2年~

左サイドバーの「小平G建物配置図の変遷」をクリックすると
まとめたものがダウンロードできるので、ご参照いただきたい。
現役時代の記憶を呼び戻す一助になれば幸いである。

昭和20年代:戦後復興期

【昭和22年(1947)国土地理院】    【昭和25年(1950)一橋一覧】

【昭和28年(1953)一橋一覧】     【昭和29年(1954)一橋一覧】

昭和30年代:高度成長期

【昭和30年(1955)一橋一覧】     【昭和32年(1957)卒業アルバム】

【昭和31年(1956)一橋一覧】     【昭和34年(1959)卒業アルバム】

昭和42年〜昭和57年:第1次変革期
鉄筋コンクリート造の新しい建物が増え、
一橋寮や各運動部のコートの配置も大きく姿を変えた。

【昭和42年(1967)一橋一覧】     【昭和43年(1968)一橋一覧】

【昭和45年(1970)一橋要覧】     【昭和46年(1971)一橋要覧】

【昭和47年(1972)一橋要覧】     【昭和48年(1973)一橋要覧a】

【昭和48年(1973)一橋要覧b】     【昭和50年(1975)一橋要覧】

【昭和55年(1980)一橋要覧】     【昭和57年(1982)一橋要覧】

平成元年〜令和3年:第2次変革期
平成8年に小平分校が廃止され、平成12年から平成16年にかけて
小平国際キャンパスへと「建物配置」は再び大きな変貌を遂げる。
そして令和3年3月、グラウンドの全面人工芝化が竣工し、現在に至る。

【平成元年(1989)一橋要覧】      【平成8年(1996)一橋概要】

【平成12年(2000)一橋概要】     【平成13年(2001)一橋概要】

【平成14年(2002)一橋概要】     【平成15年(2003)一橋概要a】

【平成15年(2003)一橋概要b】     【平成16年(2004)一橋概要】

【平成23年(2011)一橋概要】     【平成27年(2015)一橋概要】

【令和3年(2021)一橋概要】

100年史秘話 〜 父が遺した命のバトン

2020年8月1日  タグ: 沿革   コメントする

コロナ禍の中で迎える、終戦から75年目の夏・・

『60年史』の巻末に掲載されている酉松会会員名簿には、
10名の戦死あるいは戦病死された先輩がいる。
その中の1人、神野光司先輩(清一郎改 昭11卒)と
彼の息子さんにまつわる秘話を紹介したい。

神野先輩は、昭和5年(1930)に入部。
当時の商大蹴球部は低迷の極にあり、翌昭和6年には
東京カレッジリーグの4部にまで転落した。しかし、
翌年から3年連続でリーグ優勝し、昭和9年に1部昇格を果たす。
昭和9年は、小平グラウンドの歴史が始まった年でもある。
この映えあるチームをけん引した1人が、神野先輩だった。


卒業後、昭和13年に神野先輩は中支戦線へ出征。
昭和19年には沖縄へ。
そして昭和20年6月20日、沖縄本島の真壁で戦死された。
その時、彼には生後1歳余りの息子がいたのだ。
名前は匡司(ただし)。

戦後、神野匡司さんの母は夫の末弟に再嫁し、匡司さんは
叔父の養子となる。父の情報は一切封印されたまま育てられるが、
中学生の頃、祖母が涙ながらに真実を話してくれた。しかし、
その後も匡司さんは母と養父に気を使い、何も知らないふりをして
生きてきた。ただ「父の戻る場所」を守りたいという気持ちから
頑なに引越しを拒み、戦前と同じ場所に住み続けた。
それが、奇跡のような出会いを招き寄せた。

平成30年(2018)、長年にわたって一橋大学の戦没学徒を
調査している「一橋いしぶみの会」の代表・竹内雄介氏(昭49卒)が、
記録に残っていた住所を頼りに匡司さんの自宅を探し当て、
神野先輩の大学時代の情報をつぶさに伝えた。

父・清一郎がサッカー部員で、輝かしい成績を収めたこと・・
在学中に改名し、清一郎ではなく光司と名乗っていたこと・・
父が自分の名の1字をとって、息子の名前につけたこと・・
それは匡司さんにとって、齢75にして初めて知る父の姿だった。

当時の気持ちを綴った匡司さんの文章を
竹内氏が送ってくださったので、下記に掲載する。

「父・神野清一郎に捧ぐる記」

そして昨日、令和2年7月31日、
酉松会ウェブサイトの存在を知った竹内氏のセッティングにより、
私は神野匡司さんご夫婦を小平グラウンドへ案内することになった。

昭和11年の卒業時に小平グラウンドで撮影された
神野先輩の写真がある。それから80年以上の年月が過ぎ、
サッカーコートの位置も周囲の環境も全く違っているが、
歴代部員の汗と涙が浸み込んだ、小平の土だけは変わらない。

匡司さんは、父が愛した小平グラウンドに初めて立った。
父が筆でしたためた息子誕生の記録を手に。

別れ際、「100年史」の編纂のために集めた神野先輩の写真と
部誌『蹴球』に寄稿された文章のコピーを渡すことができた。
なんとも不思議な、そして心温まる時間だった。と同時に
「100年史」の記録を残すことは酉松会会員だけのためではなく、
未来に生きる、その家族や知人・友人のためでもあると痛感した。
このような機会を与えてくださった「一橋いしぶみの会」と
竹内氏に心から感謝したい。

思えば、大正7年(1918)に世界中を襲ったスペイン風邪が、
ようやく収まってきたのは大正10年(1921)と言われ、
その年に我が一橋大学のサッカー部は生まれた。

100年後に世界は再びパンデミックに襲われたが、
来年には恐らくワクチンの普及が開始され、収まってくるだろう。
そして小平グラウンドは長年の夢であった人工芝になり、
サッカー部は次の100年に向けて新しいスタートを切ることになる。
稀有な符合を感じるのは私だけだろうか。

いずれにせよ、この厳しい時代を
常に「希望」を抱きながら乗り切っていきたいものだ。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑩ 〜 昭和、平成、そして令和へ

2020年4月5日  タグ: 沿革   コメントする

昭和49年(1974)
関東リーグ2部に復帰したが、そのレベルはやはり高かった。
毎年下との入替戦が続き、わずか3年で再び東京1部に降格してしまう。
以後、 昭和52年 から平成の時代、そして令和2年の現在に至るまで、
43年間、関東リーグ復帰は達成されていない。





さて『60年史』の記録は昭和55年までなので一旦区切りを置き、
こぼれネタ的なことを3つ記しておこう。

■多摩湖線
昭和3年(1928)4月6日
国分寺=桜堤=小平学園=青梅街道=萩山の4.4キロが開業。

昭和8年(1933)9月11日
石神井にあった商大予科の小平移転に合わせて 商大予科前駅 が開業。
この駅は小平分校正門前の通りをまっすぐ歩いた突き当たりにあった。
当初は1両編成で30分に1本ぐらいしか走っていなかったので、
登校・下校の時間はスシ詰め状態。屋根の上に乗る者もいて走行中に
落ちたりしたが、ノロノロ電車なのでケガはなかったという。



昭和24年(1949)5月1日
学制改革によって東京商科大学が一橋大学に改称されたのに合わせ、
商大予科前駅も 一橋大学駅 に変わる。



昭和41年(1966)7月1日
一橋大学駅と小平学園駅を併合し、2駅の中間地点に
一橋学園駅 が新設され、現在に至っている。



■シュート板
写真に残る最も古いシュート板は、昭和29年(1954)に造られたもの。
焼跡からの部の再建に多大な貢献をした 松浦 巌(昭22卒)が、学生の
要望に応えてOBに特別寄付を募り、設置してくれた。10年あまり使われ
一度ボロボロになってしまうが、昭和40年から41年の間に修復された。
そして昭和45年から46年にかけ、サッカー場が90度回転された際に
シュート板も新調され移動した。しかし、いつしか見向きもされなくなり、
50年後の今は無残な姿をさらしている。残念なことだ。




■女子マネージャー
昭和46年(1971)、初代女子マネージャーは突然姿を現した。
猿渡啓子(津田塾大学)と 河野恵美子(武蔵野音楽大学)。
そのエピソードが何ともおかしい。
吉岡基夫(昭49卒)が酉松会新聞11号に、こう綴っている。

“ラグビー部が津田塾大学に「女子マネージャー求む」と張り紙をした
ところ、サッカーとラグビーを間違えてグラウンドに来られた方でした。
「誰のお母さんだ」と言ってる人や、張り切ってヘディングシュートを
したところ脳天に当たってしまい、何を言ってるのか分からなくなった
人もいました。”

勘違いだったのに、
なぜ2人がサッカー部のマネージャーになったのかは、謎のままだ。
想像するにサッカー部の雰囲気が気に入ったからか・・
ともあれ、その後、津田塾大から女子マネになる女性が続いた。
記録をたどれるのは昭和46年から55年まで。
その間に部員と女子マネのカップルが2組生まれ、結婚に至っている。


以上、10回にわたって創部から60年の記録をまとめてきた。
その後40年の月日が流れ、サッカー部は大きく変貌する。

平成8年(1996)小平分校が廃止 され
勉学と生活の中心は国立になり、練習も、かつては授業が終わった
午後の4時頃から日暮れまでだったが、いつの頃からか朝練になった。

平成24年(2012)から、
プロのフィジカルコーチやメンタルコーチを招聘して
最新のトレーニングを開始し、さらに長年主将とGMに頼ってきた
部の運営を学生が独自に考案した全員参加型の「ユニット制」に変え、
それが新しい伝統となった。

平成25年(2013)から、東京都大学リーグが秋季1回だけでなく
春秋2回の戦績で争われるようになり、
人工芝グラウンドを持つ大学が増えて小平でリーグ戦が行われなくなり、
府中の「郷土の森公園」にある人工芝グラウンド等を借りて
練習するようになった。

そして・・部員数が70〜80名の大所帯となり、
女子マネージャーも8〜10人に増え、しかも全員一橋の学生なり、
いつしか彼らはサッカー部を「ア式」と呼ぶようになった。
亡くなられた大先輩たちも、きっと目を丸くしていることだろう。


創部100年目となる令和3年(2021)、
一橋大学ア式蹴球部は新たな100年に向かって歩みを始める。
それが新設された人工芝グラウンドから始まることを切に願いつつ、
「シリーズ100年史」は、ここで一旦終了する。
昭和56年卒以降のOBからの情報が集まり次第、再開したい。
ご協力の程よろしくお願いします。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記