100年史⑨ 〜 東京都リーグ・新小平Gの誕生
昭和43年(1968)
メキシコ五輪が行われたこの年、関東大学サッカーリーグの編成替え が
行われた。1部と2部はそのままで、3部以下 のチームは 東京・千葉・
埼玉・神奈川県のリーグ に所属することになったのだ。それぞれの
リーグの1・2位=計8チームがトーナメントで争い、上位2チームが
関東リーグ2部7・8位のチームと入替戦を行う。
関東リーグ3部だった一橋は、東京都リーグ1部 に参戦。
記念すべき最初のリーグ戦は10校で争われ、一橋の戦績は6勝1分2敗。
勝ち点13を獲得し、自由学園大学に次いで 2位 となる。
リーグ2位の一橋は入替戦の切符を賭けたトーナメント戦に出場。
1回戦の相手は千葉県リーグ代表で、昨年までは関東2部だった
順天堂大学。前半は40分にPKを得たが決められず、0:0。後半は
激しい試合になり、立ち上がりに先制されるも31分、39分の連続
ゴールで逆転。勝利も間近と思われた。しかし最後の5分に相手の
連続ゴールを許し再逆転されて惜敗。関東2部復帰は叶わなかった。
当時の主将、有田 稔は『60年史』に苦しい胸の内を綴っている。
“今でもこの試合を思い出すたびに悔しさと反省で胸が締め付けられる。
何故最高責任者である主将がPKのキッカーとならなかったか、
(チーム内随一のテクニックを誇る3年の土井にPKを指示)
最後の5分間を守りに徹する指示をしなかったか、
主将として最後の試合で悔いを残すことになってしまった。”
昭和45年(1970)
秋のリーグ戦が終了した後、小平グラウンドの改修工事 が行われた。
それまでのサッカー場は玉川上水に平行してタッチラインが引かれ
東西にゴールがあったが、下右の図のように北へ90度回転した位置に
移された。台風や大雨の後は「小平湖」が出現するほど悪かった
水はけもかなり改善され、砂を入れて整備に励む部員たちの努力も
実り、翌春には見違えるように平らで良いグラウンドになった。
今からちょうど50年前の話である。
ホッケー場やテニスコートも場所を移し、さらに4棟あった一橋寮の
南側2棟が撤去され、体育館・武道場・プールが造られた。
旧プールの跡地にはクラブハウス(部室)や合宿所が建てられている。
(当初は木造、現在は鉄筋コンクリート、場所は変わっていない)
小平キャンパスは大きく様変わりした。
そして、この頃から中学や高校でサッカーをしていた経験者が数多く
入部するようになり、一橋大学サッカー部は新たな時代へ入っていく。
昭和46年(1971)
東京都リーグの制度が改訂され、1部は10チームから8チームになり
5位以下(下位4チーム)は2部との入替戦が義務づけられる。また
上位4チームは関東大会に出場し、千葉・埼玉・神奈川に加え群馬県
リーグ優勝の4校と入替戦出場を賭けトーナメントで戦うことになった。
・・(要確認)
さらに画期的な事柄が2点あった。
1つは 外部コーチ として 内野正雄 氏(古河電工・メルボルン五輪
日本代表)を招き、リーグ戦前には日本リーグの強豪である日立の胸を
借りたこと。もう1つは 女子マネージャー が2名入部したことである。
女子マネについては、また別の回で詳述することにする。
昭和48年(1973)
念願の 関東2部復帰 を果たした年として長く記憶されている。
その要因を挙げると・・
①試合メンバーのほぼ全員が中学からサッカーをやっていた経験者で、
しかも2年次から(中には1年次から)レギュラーとして活躍しており、
技術水準・試合経験がこれまでになく高いチームだった。
②古河電工の内野氏に続き、三菱重工の 片山洋 氏にコーチを依頼し、
ヤンマー(現セレッソ大阪)や ヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)など
強豪チームの胸を借りることができたことも大きい。
③さらに部員たちの意識も高く前年度から スカウティング を開始していた。
一橋も本格的な近代サッカーの時代に入ったのだ。
“大きな模造紙に相手チームのメンバーの顔写真(自分のチームの試合を
観ずに偵察に行き、望遠レンズで盗み撮りをしてくるのである)を貼り、
それぞれの動きの特徴、行動範囲、攻守の型をたたき込むことことが
試合前日のミーティングのパターンとなった。” ・・『60年史』より
それでも2部復帰への道のりは簡単ではなかった。
リーグ戦はギリギリの4位で関東大会に進出し、1回戦・準決勝も
PK戦にもつれ込む薄氷の勝利で、ようやく復帰を果たしたのである。
★東京都リーグ1部 4位:3勝1分3敗
★関東大会
1回戦:vs 群馬大 △ 1 – 1 PK戦 4 – 1 勝
準決勝:vs 明学大 △ 1 – 1 PK戦 4 – 2 勝
決 勝:vs 青学大 ● 0 – 1
★入替戦:vs 上智大(関東リーグ2部7位) ◯ 2 – 0
“(入替戦)試合当日は穏やかに晴れわたり、枯れた芝生を晩秋の
柔らかな日差しが包んでいた。開始直後から激しいチェックを試みる
わが軍の気魄が勝り、前半の半ば、右サイド内田(3年HB)からの
センタリングを胸で落とした山崎(4年CF)がドライブのかかった
ボレーシュートをゴールに突き刺すや、敵は完全に浮き足立った。
さらに遠藤(4年FW)のドリブルシュートで追加点を奪い、後半は
控え選手も一丸となったチームワークで2点を守り抜いた。その夜は、
駆けつけたOBの方々のご好意に甘え、我々の謳う「武蔵野深き」が
一晩中盛り場の空にとどろきわたったという。” ・・『60年史』より
卒業しても記憶に鮮やかな、リーグ戦の悲喜こもごも・・
それは、どの世代も変わらない。
以下、次号。
酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記