酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

100年史⑩ 〜 昭和、平成、そして令和へ

2020年4月5日  タグ: 沿革   コメントする

昭和49年(1974)
関東リーグ2部に復帰したが、そのレベルはやはり高かった。
毎年下との入替戦が続き、わずか3年で再び東京1部に降格してしまう。
以後、 昭和52年 から平成の時代、そして令和2年の現在に至るまで、
43年間、関東リーグ復帰は達成されていない。





さて『60年史』の記録は昭和55年までなので一旦区切りを置き、
こぼれネタ的なことを3つ記しておこう。

■多摩湖線
昭和3年(1928)4月6日
国分寺=桜堤=小平学園=青梅街道=萩山の4.4キロが開業。

昭和8年(1933)9月11日
石神井にあった商大予科の小平移転に合わせて 商大予科前駅 が開業。
この駅は小平分校正門前の通りをまっすぐ歩いた突き当たりにあった。
当初は1両編成で30分に1本ぐらいしか走っていなかったので、
登校・下校の時間はスシ詰め状態。屋根の上に乗る者もいて走行中に
落ちたりしたが、ノロノロ電車なのでケガはなかったという。



昭和24年(1949)5月1日
学制改革によって東京商科大学が一橋大学に改称されたのに合わせ、
商大予科前駅も 一橋大学駅 に変わる。



昭和41年(1966)7月1日
一橋大学駅と小平学園駅を併合し、2駅の中間地点に
一橋学園駅 が新設され、現在に至っている。



■シュート板
写真に残る最も古いシュート板は、昭和29年(1954)に造られたもの。
焼跡からの部の再建に多大な貢献をした 松浦 巌(昭22卒)が、学生の
要望に応えてOBに特別寄付を募り、設置してくれた。10年あまり使われ
一度ボロボロになってしまうが、昭和40年から41年の間に修復された。
そして昭和45年から46年にかけ、サッカー場が90度回転された際に
シュート板も新調され移動した。しかし、いつしか見向きもされなくなり、
50年後の今は無残な姿をさらしている。残念なことだ。




■女子マネージャー
昭和46年(1971)、初代女子マネージャーは突然姿を現した。
猿渡啓子(津田塾大学)と 河野恵美子(武蔵野音楽大学)。
そのエピソードが何ともおかしい。
吉岡基夫(昭49卒)が酉松会新聞11号に、こう綴っている。

“ラグビー部が津田塾大学に「女子マネージャー求む」と張り紙をした
ところ、サッカーとラグビーを間違えてグラウンドに来られた方でした。
「誰のお母さんだ」と言ってる人や、張り切ってヘディングシュートを
したところ脳天に当たってしまい、何を言ってるのか分からなくなった
人もいました。”

勘違いだったのに、
なぜ2人がサッカー部のマネージャーになったのかは、謎のままだ。
想像するにサッカー部の雰囲気が気に入ったからか・・
ともあれ、その後、津田塾大から女子マネになる女性が続いた。
記録をたどれるのは昭和46年から55年まで。
その間に部員と女子マネのカップルが2組生まれ、結婚に至っている。


以上、10回にわたって創部から60年の記録をまとめてきた。
その後40年の月日が流れ、サッカー部は大きく変貌する。

平成8年(1996)小平分校が廃止 され
勉学と生活の中心は国立になり、練習も、かつては授業が終わった
午後の4時頃から日暮れまでだったが、いつの頃からか朝練になった。

平成24年(2012)から、
プロのフィジカルコーチやメンタルコーチを招聘して
最新のトレーニングを開始し、さらに長年主将とGMに頼ってきた
部の運営を学生が独自に考案した全員参加型の「ユニット制」に変え、
それが新しい伝統となった。

平成25年(2013)から、東京都大学リーグが秋季1回だけでなく
春秋2回の戦績で争われるようになり、
人工芝グラウンドを持つ大学が増えて小平でリーグ戦が行われなくなり、
府中の「郷土の森公園」にある人工芝グラウンド等を借りて
練習するようになった。

そして・・部員数が70〜80名の大所帯となり、
女子マネージャーも8〜10人に増え、しかも全員一橋の学生なり、
いつしか彼らはサッカー部を「ア式」と呼ぶようになった。
亡くなられた大先輩たちも、きっと目を丸くしていることだろう。


創部100年目となる令和3年(2021)、
一橋大学ア式蹴球部は新たな100年に向かって歩みを始める。
それが新設された人工芝グラウンドから始まることを切に願いつつ、
「シリーズ100年史」は、ここで一旦終了する。
昭和56年卒以降のOBからの情報が集まり次第、再開したい。
ご協力の程よろしくお願いします。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑨ 〜 東京都リーグ・新小平Gの誕生

2020年4月3日  タグ: 沿革   コメントする

昭和43年(1968)
メキシコ五輪が行われたこの年、関東大学サッカーリーグの編成替え
行われた。1部と2部はそのままで、3部以下 のチームは 東京・千葉・
埼玉・神奈川県のリーグ
に所属することになったのだ。それぞれの
リーグの1・2位=計8チームがトーナメントで争い、上位2チームが
関東リーグ2部7・8位のチームと入替戦を行う。

関東リーグ3部だった一橋は、東京都リーグ1部 に参戦。
記念すべき最初のリーグ戦は10校で争われ、一橋の戦績は6勝1分2敗。
勝ち点13を獲得し、自由学園大学に次いで 2位 となる。

リーグ2位の一橋は入替戦の切符を賭けたトーナメント戦に出場。
1回戦の相手は千葉県リーグ代表で、昨年までは関東2部だった
順天堂大学。前半は40分にPKを得たが決められず、0:0。後半は
激しい試合になり、立ち上がりに先制されるも31分、39分の連続
ゴールで逆転。勝利も間近と思われた。しかし最後の5分に相手の
連続ゴールを許し再逆転されて惜敗。関東2部復帰は叶わなかった。
当時の主将、有田 稔は『60年史』に苦しい胸の内を綴っている。

“今でもこの試合を思い出すたびに悔しさと反省で胸が締め付けられる。
何故最高責任者である主将がPKのキッカーとならなかったか、
(チーム内随一のテクニックを誇る3年の土井にPKを指示)
最後の5分間を守りに徹する指示をしなかったか、
主将として最後の試合で悔いを残すことになってしまった。”

昭和45年(1970)
秋のリーグ戦が終了した後、小平グラウンドの改修工事 が行われた。
それまでのサッカー場は玉川上水に平行してタッチラインが引かれ
東西にゴールがあったが、下右の図のように北へ90度回転した位置に
移された。台風や大雨の後は「小平湖」が出現するほど悪かった
水はけもかなり改善され、砂を入れて整備に励む部員たちの努力も
実り、翌春には見違えるように平らで良いグラウンドになった。
今からちょうど50年前の話である。

ホッケー場やテニスコートも場所を移し、さらに4棟あった一橋寮の
南側2棟が撤去され、体育館・武道場・プールが造られた。
旧プールの跡地にはクラブハウス(部室)や合宿所が建てられている。
(当初は木造、現在は鉄筋コンクリート、場所は変わっていない)


小平キャンパスは大きく様変わりした。
そして、この頃から中学や高校でサッカーをしていた経験者が数多く
入部するようになり、一橋大学サッカー部は新たな時代へ入っていく。


昭和46年(1971)
東京都リーグの制度が改訂され、1部は10チームから8チームになり
5位以下(下位4チーム)は2部との入替戦が義務づけられる。また
上位4チームは関東大会に出場し、千葉・埼玉・神奈川に加え群馬県
リーグ優勝の4校と入替戦出場を賭けトーナメントで戦うことになった。
・・(要確認)

さらに画期的な事柄が2点あった。
1つは 外部コーチ として 内野正雄 氏(古河電工・メルボルン五輪
日本代表)を招き、リーグ戦前には日本リーグの強豪である日立の胸を
借りたこと。もう1つは 女子マネージャー が2名入部したことである。
女子マネについては、また別の回で詳述することにする。

昭和48年(1973)
念願の 関東2部復帰 を果たした年として長く記憶されている。
その要因を挙げると・・

①試合メンバーのほぼ全員が中学からサッカーをやっていた経験者で、
しかも2年次から(中には1年次から)レギュラーとして活躍しており、
技術水準・試合経験がこれまでになく高いチームだった。
②古河電工の内野氏に続き、三菱重工の 片山洋 氏にコーチを依頼し、
ヤンマー(現セレッソ大阪)や ヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)など
強豪チームの胸を借りることができたことも大きい。
③さらに部員たちの意識も高く前年度から スカウティング を開始していた。
一橋も本格的な近代サッカーの時代に入ったのだ。

“大きな模造紙に相手チームのメンバーの顔写真(自分のチームの試合を
観ずに偵察に行き、望遠レンズで盗み撮りをしてくるのである)を貼り、
それぞれの動きの特徴、行動範囲、攻守の型をたたき込むことことが
試合前日のミーティングのパターンとなった。” ・・『60年史』より

それでも2部復帰への道のりは簡単ではなかった。
リーグ戦はギリギリの4位で関東大会に進出し、1回戦・準決勝も
PK戦にもつれ込む薄氷の勝利で、ようやく復帰を果たしたのである。

★東京都リーグ1部 4位:3勝1分3敗

★関東大会
1回戦:vs 群馬大 △ 1 – 1 PK戦 4 – 1 勝
準決勝:vs 明学大 △ 1 – 1 PK戦 4 – 2 勝
決 勝:vs 青学大 ● 0 – 1
★入替戦:vs 上智大(関東リーグ2部7位) ◯ 2 – 0

“(入替戦)試合当日は穏やかに晴れわたり、枯れた芝生を晩秋の
柔らかな日差しが包んでいた。開始直後から激しいチェックを試みる
わが軍の気魄が勝り、前半の半ば、右サイド内田(3年HB)からの
センタリングを胸で落とした山崎(4年CF)がドライブのかかった
ボレーシュートをゴールに突き刺すや、敵は完全に浮き足立った。
さらに遠藤(4年FW)のドリブルシュートで追加点を奪い、後半は
控え選手も一丸となったチームワークで2点を守り抜いた。その夜は、
駆けつけたOBの方々のご好意に甘え、我々の謳う「武蔵野深き」が
一晩中盛り場の空にとどろきわたったという。” ・・『60年史』より

卒業しても記憶に鮮やかな、リーグ戦の悲喜こもごも・・
それは、どの世代も変わらない。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑧ 〜 関東リーグ2部で奮闘するも・・

2020年3月31日  タグ: 沿革   コメントする

終戦から15年、朝鮮特需を経て高度成長期に入っていく日本。
焼け跡から目覚ましい復興を遂げ、昭和31年度の経済白書 には
「もはや戦後ではない」と云うフレーズが踊る。

一橋大学サッカー部は昭和25年(1950)以来
ずっと関東リーグ2部にあり、何とか1部に上がろうと毎年奮闘するも
下位に低迷。ついに 昭和41年(1968)3部に降格 してしまった。
戦績は以下の通りである。



この間も春夏の合宿は、ほとんど小平で行われていた。
“技術で及ばない所は体力、気力で補う” ・・その伝統も変わらない。
有田 稔先輩(昭44卒)から提供された夏合宿の貴重なショットを
紹介しよう。練習メニューの一端を知ることができる。

昭和40年(1965)
メインイベント:グラウンド32〜33周

昭和41年(1966)
メインイベント:午前 立川 / 午後 多摩湖 往復ランニング



昭和42年(1967)

昭和39年(1964)東京五輪で日本代表はベスト8。
翌年には日本サッカーリーグが発足。
そして昭和43年(1968)メキシコ五輪で日本が銀メダルを
獲得するとブームに火が点き、小中学校からサッカーを始める
少年たちが爆発的に増えていく。しかし彼らが我が校に入学するのは、
まだ少し先のことであった。

以下、次号

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑦ 〜 伝統の小平春夏合宿が始まる

2020年3月30日  タグ: 沿革   コメントする

昭和21年から30年までの戦績は、以下の通り。

昭和23年(1948)
前年のレギュラーが8名も卒業して技量が低下。部員数も極度に
減少したため毎試合11人揃えるのに苦労し、集まったメンバーを見て
ポジションを決めるという有様で、2部でも全敗して 3部に転落 した。
また主将も不在で一時は部の存続すら危ぶまれる最悪の事態となった。

昭和24年(1949)
本年より学制改革が行われ 、6:5:3:3 から 6:3:3:4 に移行。
5月に東京商科大学から 一橋大学 と改称する。

前年から9人もの部員が卒業し、高校時代の経験者2名に臨時出場を
要請しなければならないほどメンバー集めに苦労したが、予科生が
主体となり、よく耐え、よく忍び、1年で 2部に復帰 した。

“3部転落の憂き目を何とか晴らしたいという全員の熱烈なファイトが
盛り上がり、年間を通じて長雨の泥濘戦ではあったが、5戦5勝
2不戦勝の戦績を挙げ、ついに待望の2部昇格を果たすことができ、
全くの感無量の一言に尽きた。特に3部の中にはやくざ風の者もおり、
試合を投げてグランドに坐りこむ奴もいて全くサッカーを侮辱するもの
と憤慨に堪えず、この点からも3部脱出は商大サッカー部のプレステイ
ッヂの為にもよかったと思った。” ・・『60年史』の記事より

昭和25年(1950)
食料や衣服等を始めとする社会環境が安定の兆しを見せ始め、それに
つれて部員数も増加。総勢24名になり、部活動がやっと軌道に乗る。

昭和26年(1951)
練習は国立のグラウンドで1日おきに午後1時半から日没まで行われる。
日曜は他校との練習マッチやOB戦をできるだけ組み、実戦でチーム力の
アップを図る。当時は麺類とコッペパンはあったが、米飯は配給制だった
ので、各自袋に入れて合宿に参加した。秋のリーグ戦は三鷹の武蔵野
グラウンドが主で、土のグラウンドとしてはよく整備されていたが、
風が吹くと砂塵が舞い上がり、ひどかった。

昭和27年(1952)
春、国立から グラウンドを小平へ 移す。
まだ土がブカブカだったため、練習の前に砂をまき戦時中の軍の
忘れ物である重い「人力ローラー」を引いて締めるのが日課だった。
当初はホッケー部のグラウンドを使わせてもらうこともあり、
完全な状態になるまでには1年以上かかったという。

昭和28年(1952)
戦前にあった部室は軍が小平分校を接収した際に撤去されており、
部員たちは体育館の用具置き場で着替えていた。しかしこの年、
新しく建設された4棟の一橋寮がオープンし、それまで寮として利用
されていた学生食堂棟の半分が各運動部の部室や合宿所として使える
ようになった。以後、春と夏の合宿を小平で行うことがサッカー部の
長い伝統となっていく。当時は貸蒲団などなく、各自が自宅又は寮から
布団や枕を電車に乗せて持ち込み、食事は寮の賄いに依頼したという。




この頃のサッカー部について、あるOB(昭34卒)は『60年史』に
こう記している。

“わが国のサッカーは、東京オリンピックを一つの契機として
めざましい発展をとげ、極めてポピュラーなスポーツになりましたが、
当時は野球が国民的スポーツで、サッカーはマイナースポーツの1つに
過ぎず、そのため特に学生数の少ない我が校では、高校サッカーでの
経験者も少なく新人にはイロハから教えこむという状況でした。

3~4年で高度な技術を身につけることは並大抵なことではなく、
自づと限界がありますので、技術で及ばない所は体力、気力で補う
いうのが我々のモットーでした。このため日曜日も含め毎日が練習日で、
ロングと称した多摩湖、国立への往復ランニングはほんとに苦しい
トレーニングでした。”

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑥ 〜 焼け跡からの再建

2020年3月15日  タグ: 沿革   コメントする

昭和20年(1945)8月15日 終戦
軍隊から戻った加藤 省(昭23卒)は『60年史』に、こう記している。

“東京は見渡す限りの焼土であった。はるか向こうまで眼をさえぎるもの
さえなく、焼跡特有の異様な臭気が立ち込めていた。使命感に燃えて
出陣した我々学徒兵にとっては、この祖国の変わり方は精神的に大きな
衝撃であり、敗戦の悲哀をいやという程味合わされた。将来に対する
希望すら失いかけながら、国立に復学届を出しに行き、赤松の林の間に
懐かしい校舎を見、グランドのゴールポストを見た時は胸が熱くなるのを
禁じ得なかった。軍隊で夢にまで見たものが、そのままそこに残っていた
からである。”


昭和21年(1946)
加藤によればサッカー部の再建が始まったのは、この年の春。
「サッカーの練習を始めようや」
そう皆に声をかけたのが、本科3年の 松浦 巌 だった。
昭和13年の全国中学選手権(現高校選手権)で優勝した神戸一中の
センターハーフとして活躍した逸材で、昭和15年に商大予科に入学すると
即レギュラーになり、関東1部準優勝に大きな貢献をした。卓越した技術は
勿論のこと、信頼と包容力を感じさせる頑健な肉体とにこやかな風貌を持ち、
誰からも愛された。通称「がんさん」。さらに加藤の記述を続ける。

“ボールを蹴り、走ってみて現実の厳しさをいやという程感じた。
第一に腹がへってどうにもならぬし、身につける物は軍隊のシャツであり、
地下足袋であり、用具類は無に等しかったからである。そうするうちに
秋にはリーグ戦が再開されることになり、巖さんの本格的な部再建運動が
始まった。空き腹をかかえて練習した後で、松本さんはじめ諸先輩に援助を
お願いし、資材の調達に走り廻ったのであるから、その苦労は並大抵のもの
ではなかっただろう。戦前の学部生としては唯一人残られ、部再建については
使命感を持って居られた。卓抜とした指導力と、稀にみる包容力を発揮され、
我々後輩に部再建の苦労を殆ど気付かせなかった。”

小平グラウンドが使用できない中、松浦の発案で国立にある陸上競技部の
部室の2階を借り、9月中旬から1ヶ月の合宿を行った。食料は芋が主食で、
また合宿費を稼ぎ出すために全員で倉庫会社の荷役のアルバイトに行くなど
今では想像できないような苦労があったが、弾も飛んで来ない、空襲もない
グラウンドでボールを蹴る喜びは、すべての困難を凌駕していったという。

秋、終戦からわずか1年あまりで 関東サッカーリーグ が再開。
神宮競技場が進駐軍に接収されていたため、試合は帝大の御殿下グラウンド
で行われる。各チームとも選手不足に悩みメンバー編成に苦労した。戦争の
長いブランクを埋めるため大学院に籍を置く学生も多く、この年は特別に
大学院の学生も出場することができた。

我が部は 東京産業大学(昭和19年に改称)として 1部リーグ に参加したが、
チーム編成に大きな問題を抱えていた。他大学に比し部員がもともと少ない
上に地方出身者が多く、折からの住宅難・食糧難が彼らの上京を殆ど不可能
にしていたのである。幸いにも専門部の学生や、松本高校出身の外岡、
東京外語出身の森重の参加を得て、ようやく体裁を整えた。しかし質量ともに
劣勢なのは否めず、1勝4敗5位 。かろうじて残留するのが精一杯だった。

昭和22年(1947)
旧名の 東京商科大学 に戻る。
チームの中核であった松浦の卒業の穴は大きく、また戦後の急激な
インフレや食糧難による混迷はフルメンバーでの練習を益々困難にした。
リーグ戦は全敗で 最下位 となり、2部に降格
以後、我が校の名前は関東リーグ1部から消える。

終戦直後の苦難の時代に部の再建を牽引した、松浦 巌(昭22卒)。
“がんさん”は、どんな思いだったのか・・
最後に、松浦が部誌『蹴球』第9号に寄せた文章を紹介しよう。
昭和17年、予科の主将として松浦はリーグ戦を戦ったが、チームは
最下位に沈み2部に降格してしまった。その時の気持ちを率直に綴っている。


“予科の人に言ひたい事は、皆其々種々な苦しい事に出逢ふ時が
あるだろうけれども其を押し切ってやって行く物は何か、
其は蹴球と蹴球部に対する愛であり、其は何処から出て来るかは
其の人が飽迄部に練習に喰付いて自分を投げ込んでやるの他はない。

自分にとって苦しかった予科時代を省みると、二年になって
蹴球だけで此の学校時代を過ごして良いのかと云ふ反省が起きた。
(三年になると)主将としての重大な責任と、又春に変わった
リーグ戦の猛練習とで喘ぎ喘ぎの気持ちであった。部を辞めて
自分のやりたい勉強にじっくりひたりきるべきかと考へた事もあった。

併し其には自分の気持ちに絶対許せぬものがあった。
俺と云ふ人間の内に蹴球部が喰込んでゐる。
其を棄てる事は自分が半分に裂かれるのも同然だと云ふ気持である。

病気になったり足を挫いたりして部全体に全く詫びのしようのない
済まない事をして了った。二部に落ちたのは凡て自分の責任であると
本三の方々の顔を見る度に心の底で刺される様な気持ちがする。

吾々は蹴球部と云ふ真に自分の一身を投込んでやる行動の場を
持ってゐる。本当に自己を捧げ切って行動する場を持たない人間は
ロボットの様な存在だ。此の烈しい時勢の中にあって、且又日本の
将来を決すべき時にあたって本当に働くものは、真に行動する場を
通じて体験され、生み出されてきた物でなければならない。
吾々の練習も勉強も部生活も此でなくてはならないと思ふ。”

“がんさん”は、誰よりも1部優勝を願い、厳しく自己を律し、
そして、誰よりもサッカーとサッカー部を愛した男だった。
昭和55年(1980)11月28日、
兼松江商の社長在任中に急逝。享年59。

振り返れば・・
戦前戦中戦後、サッカー部は幾度も危機に襲われた。
しかし我が部には、強い使命感と責任感を持って乗り越えようとした
部員とOBの存在が、常にあったのだ。

創設メンバーであり、後輩たちを物心両面で支え続けた、松本正雄 ・・
病を押し、部をどん底から救った、長瀬凱昭(東作)・・
部の再建に、全身全霊を捧げた、松浦 巌 ・・

彼らがいなかったら、一橋大学ア式蹴球部100年の歴史は、
まったく違ったものになっていたかも知れない。
3人の偉大なる先輩に、心から感謝の気持ちを捧げる。
現役時代に彼らの存在に気づけなかった、痛恨と共に。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記