酉松会(ゆうしょうかい)とは、一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。
酉松会WEB新聞編集長 福本 浩(昭52卒)
左手が玉川上水側。
センターラインの奥に設置された塔の上から
試合をビデオ撮影している。時代は変わった。
先発、控え選手以外の部員たちは試合中、応援歌も歌う。
まるで高校野球、高校サッカーの雰囲気。
現役諸君が選手表や最新の星取り表を配ってくれ、
足の悪いOBには椅子を出してくれるのがありがたい。
昔も今も小平グラウンドは、雨が降るとプール状態。
水を吸ったボールは重く、ヘディングして、
脳しんとうを起こした方も多いのでは? 私も、その一人。
サッカーの練習ができず、ラグビーをやって肩を脱臼した先輩もいた。
左は秋季リーグの上智戦が雨天順延になった日の写真で、右は東経大戦。
西川さんは酉松会新聞の第5号に小平グラウンドの問題について
寄稿されているので、ぜひお読みいただきたい。
右手奥に、現在は見捨てられたようになっているシュート板が見える。
玉川上水側のゴールの右側にあった。
私(福本)は、全体練習後、このシュート板を使って、
よく一人でダイレクトパスの練習をしたものだ。
みなさんには、どんな思い出がありますか?
★現在は草葉の陰に・・
下左の写真は、昭和54年(1979)頃のシュート板。
下右の写真は、西川さんが送ってくれた平成22年(2010)のシュート板。
この30年の間にかなり傷み、使われなくなってしまったようだ。
いつ頃まで使われていたのだろうか?
高峯さんが送ってくださった写真は、夏合宿の練習風景。
土埃を上げながらスライディング・タックルの練習に励んでいる。
高峯さんの時代は4年間、夏・春の合宿は小平グラウンドで行われ、
学食脇の部屋に布団を自宅(叉は下宿先)から運んで寝泊まりしたそうだ。
高峯さんは酉松会新聞の第8号(2015年2月末に発刊予定)に
小平グラウンドへの想いを寄稿されている。ぜひ、ご一読を。
有田さんや高峯さんの時代のグラウンドは現在とは90度違い、
玉川上水側の林に沿ってサイドラインがあったという。
山崎彰人先輩(昭49卒)によれば、
昭和47年頃に改修工事が行われて現在の形になり、
その時、グラウンドの広さが一回り小さくなったそうだ。
今まで知らなかった小平グラウンドの歴史・・・
下の写真にはシュート板が、はっきりと写っている。
驚いたことにボロボロ。私が入部した昭和48年までに修復されたようだ。
それにしても、このシュート板はいつからあるんだろう。
相当、歴史は古そうだ。
有田さんは酉松会新聞の第7号で、一橋サッカー部の歴史について
寄稿されている。ご一読ください。
白石さんが送ってくださったゴール前の集合写真。
何だか、現在のゴールより横幅が長いような気がするし、
ゴールバーが少し歪んでいて、全体が右に傾いているようにも見える。
気のせいだろうか・・・
下の2枚の写真には紫綬褒章、日本学士院賞を受賞した
経済学者で一橋大学名誉教授の寺西重郎さんが写っている。
・左写真:一番左が寺西さん、右から2番目が白石さん
・右写真:後列左が寺西さん、その隣が白石さん
私が在学していた40年前(昭50頃)サッカー部の部長をなさっていたが、
当時のお姿からも全く想像できない、凛々しくもゴツイ青春時代。
いや、驚きました。
嶋田さんから、さらに古い写真が届いた。
昭和30年、三商大戦に優勝した時の写真。
背後は玉川上水沿いの林で、グラウンドにはポツポツと草がある。
現在より広く、より自然を感じるグラウンドだ。
大阪市大を 4:0 、神戸大を 2:0 で破り、戦後初めて優勝。
当時の神戸大は関西1部の強豪だったという。
この年、一橋は関東1部昇格を目指したが、果たせなかった。
ユニホームはシャツが赤、パンツが白、ストッキングは不明。
下の写真は、まだ十分に現役状態のシュート板と
合宿所となった柔道場での雑魚寝。
実は・・・
酉松会新聞・第8号に投稿された高田勝巳さん(昭30卒)の記事によって
判明したのだが、高田さんが4年生の時に、酉松会幹事長の松浦大先輩が、
シュート板が欲しいという学生の要望を聞き、OBの特別寄付を集めて設置
してくれたという。シュート板には長い歴史と、多くのOBの方々の想いが
込められていた。それが見捨てられ、全く使われなくなってしまったのは、
実に寂しい限りである。
時代は嶋田さんの写真から、さらに3年遡る。すごい!
昭和27年に入部した1年生たちの写真を志摩さんが送ってくださった。
前列左から2番目に石原慎太郎氏がいる。
2年まで在籍し、3年からは柔道部へ転部したそうだ。
昭和30年に小説「太陽の季節」を発表し「太陽族」と「慎太郎刈り」が
流行するが、この頃からすでに、そのヘアースタイルだった。
下左の写真は練習風景のスナップ(昭28)。
当時は縄跳びが練習メニューに入っていた。
下右は昭和20〜30年代の部室の外観。木造の旧寮を部室に転用し、
2階は合宿所として利用していたそうだ。内部は・・・
「今と同様、写さない方がよさそうだ」と、志摩さんはおっしゃっている。
さらに志摩さんが興味深い写真を送ってくださったので紹介する。
下の2枚は大阪市大で行われた三商大戦(昭和29)の帰途、
大阪城を観光した時の写真。
当時の学生は黒の詰襟の学生服(襟には校章バッジ)と角帽が制服だった。
それが無くなったのはいつからだろう?
少なくとも私が入学した昭和48年には、制服・制帽は無くなっていた。
昭和30年、東西2部対抗戦という試合があった。
秋のリーグ戦終了後、関東2部と関西2部の選抜チームによる対抗戦が、
初めて行われたのだ。関東2部は一橋、農大、日大、法政、青学、横浜市大、
学芸大から選抜され、リーグ優勝した農大の見目監督が指揮を執ったという。
一橋からは主将の志摩さんがライトバックとしてスタメン入りした。
(最後列、ゴールポストの前にいる白いユニホーム姿の方が、志摩さん)
試合は神戸の甲南大のグランドで行われ、2:1で関西選抜が勝利した。
東西2部対抗戦は、この一戦で幕を閉じる。下の記念写真は、
日本の大学サッカー史上、最初で最後の試合を記録した貴重な1枚である。
如水会館5階の資料室に有志が寄贈した歴代の卒業アルバムが保管されている。
その中から見つけた戦前のサッカー部の写真を年代順に掲載する。
一橋のサッカー部の創設は大正13年であるが、ここで見つかった写真は
昭和8年、10年、11年、14年、15年、16年のものだけだった。
小平グラウンドで撮られたものではない写真もあるが、記録として残しておく。
如水会が保存している卒業アルバムには国立や小平の写真も掲載されていた。
以下、独断と偏見でピックアップしたものを並べていく。
心が疲れた時に眺めてみてください。