酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

酉松会新聞 第15号 発刊!

2022年3月16日  タグ: お知らせ   コメントする

令和4年の酉松会新聞、第15号を発刊しました。
寄稿してくださったOB、現役部員の皆さん、ありがとうございます。
ラインアップは以下の通り。ぜひお読みください。

巻頭挨拶
⚽️ 緒方 徹 (昭49卒 会長):101年目に思う

特集:Soccer深イイ話
⚽️ 五味 正秀(昭55卒):Jのこと
⚽️ 松永 隆 (昭58卒):DAZN問題
⚽️ 小泉 武広(平28卒):ア式からバルサへ

海外便り
⚽️ 松尾 俊彦(昭58卒):豪州におけるコロナウィルス感染症について
⚽️ 船場 貴文(平8卒):フィリピンコロナ事情
⚽️ 示野 功雄(平13卒):ドイツのコロナ事情
⚽️ 永井 美澄(平16卒):マレーシア駐在時代の思い出

百年史秘話
⚽️ 福本 浩 (昭52卒 編集長):〝 一橋寮 〟の記憶
⚽️ 米 凛太郎(2年):小平尞リポート
⚽️ 原 智也 (1年):部活との距離感

戦いを終えて
⚽️ 北西 真之(4年 主将):価値のある1年間
⚽️ 七条 拓 (4年 GM):ア式蹴球部での4年間を終えて
⚽️ 阿部 海斗(4年):楽しむ力
⚽️ 河原 岳大(4年):前半、後半。
⚽️ 北畠 大暉(4年):大事な時に俺は
⚽️ 櫛田 潤 (4年):ギリ気づけた大事なこと
⚽️ 佐川 友規(4年):生涯最高の一戦
⚽️ 戸田 知輝(4年):大切にしていること
⚽️ 戸塚 陵介(4年):忘れられない瞬間
⚽️ 内藤 昴平(4年):充実した4年間
⚽️ 藤井 勇磨(4年):けがとリハビリと見学と
⚽️ 森下 昴 (4年):一生のようにも思えた4年
⚽️ 八乙女ゆい(4年 MGR):4年間の総括
⚽️ 山口 健介(4年):感謝

令和4年度シーズンに向けて
⚽️ 皆川 開 (3年 強化本部長):歴史ある歩みの中で
⚽️ 近岡 頌 (3年 学生監督):新しいチャレンジ
⚽️ 長島 直紀(2年 事業本部長):「チーム」から「クラブ」へ。

私の学生LIFE
⚽️ 小林 尚史(2年):両立に向けて
⚽️ 清水 真衣(2年 MGR):充実した学生生活
⚽️ 森谷 高太(1年):平凡な?学生ライフ

編集後記
⚽️ 福本 浩 (昭52卒 編集長):月は東に 日は西に

100周年記念OBOG総会/OB戦は延期

2022年1月17日  タグ: お知らせ   コメントする

一橋大学ア式蹴球部OB・OG各位殿

頭書の件に関し、これまで大変多くのOBOGの皆さんよりご参加頂けるとの
ご意向を頂戴しておりましたが、ここに来てのオミクロン株の急拡大を受け、
昨日あらためて幹事内で議論の結果、当部が目指す社会や近隣住民の皆さんに
愛されるチームという観点に照らし、また折角ご参加頂ける皆様のご健康への
懸念を勘案、大変残念ながらグランドに於けるお祝い及びOBOG戦は、
コロナ収束までしばし延期とさせて頂くとの結論に至りました。
このたびは大変残念なご連絡となり洵に申し訳ありません。

尚、当日予定していたOBOG総会に関しましては、
年次必須の決議事項を含みますので、同日にリモートで開催させて頂きます。
予定時間10:00~12:00。リモートでお入り頂く番号については
別途お送りいたします。

重ねてとなりますが、ご参加を表明頂きました皆様、
またご欠席をご連絡頂きました皆様、当日ドタ参をされようとしていた皆様、
またその他OBOGの皆様、これまでのア式蹴球部へのご支援、ご指導に
深く御礼申し上げます。

何卒引き続き、宜しくお願い申し上げます。

酉松会 金谷

写真で辿る小平の記憶 ❶

2022年1月16日  タグ: 沿革   コメントする

今年で小平キャンパスの歴史は、およそ90年になる。
昭和世代はもちろんのこと、平成10年代前半卒までのOBOGにとっては、
現在の小平国際キャンパスの風景は現役時代とは大きく違い、記憶も薄れ、
思い出すのがどんどん難しくなっていると思う。

そこで、『100年史』を編纂するにあたって集めた貴重な写真と
左サイドバーに掲載した『小平G建物配置図』を使いながら
小平キャンパスの変遷を、最初から辿ってみることにする。
では、タイムマシンの目盛りを90年前の昭和7年(1932)にセットし、
時空旅行スタート!

『東京商科大学の精神と風土』(大澤俊夫著)によれば、
小平の地に東京商科大学予科キャンパスの建設が始まったのは
昭和6年(1931)10月。まだ屋根が未完成の本館しかない下の写真は、
昭和8年度の「建物配置図」(それ以前の記録はない)と
ほぼ一致するので、昭和7年頃に撮影されたと推測できる。

そして昭和8年(1933)9月に新学期が始まったというが、この時も未完成。
昭和11年の撮影として上述書に掲載された下の航空写真は、
昭和12年度の「建物配置図」と一致するので、おそらく正しい。


戦前に造られた建物の多くは戦後も長く残り、授業や課外活動に使用された。
「建物配置図」に初めて記載された年度に従って列挙していく。
(竣工した年とは限らない)また写真は戦前のものが少なく、
多くは戦後に撮影されたものであるが、建物の外観は戦前のままである。
(卒業アルバムの写真の撮影年は不詳)

昭 8(1933)本館
昭 9(1934)プール / 弓道場 / 柔剣道場
昭10(1935)寄宿舎 / 食堂及学生控所 / 雨天体操場(体育館)
昭11(1936)書庫及図書閲覧室 / 特別教室 / 講堂
昭12(1937)如意団(坐禅部)道場
昭14(1939)浴室及便所












昭和20年5月25日、小平キャンパスは米軍の空襲を受ける。
昭和22年撮影の国土地理院の航空写真を見ると、
寄宿舎は焼失したが、その他の建物は無事だったようだ。
またグラウンドは戦後の食糧難を補うために農園として利用され、
所々に畑の畝のようなものが見える。

昭24-25(1949-50)寄宿舎の再建が始まる
昭27(1952)寄宿舎の食堂ができる
昭29(1954)寄宿舎4棟(旧一橋寮)が竣工
・・・噴水蛇口が4段から3段に 空襲で最上部を欠損?
昭31(1956)弓道場が浴室及便所の北側に移動






昭28(1953)〜 昭57(1982)
小平グラウンドでサッカー部の練習が始まる。そしてこの年、
寮として利用されていた学生控所が、運動部や文化部の部室となる。
以来、1982年(昭57)に取り壊されるまで使われ続けた。
建設された年(昭10)から数えると、この木造の建物は50年近くの風雪に
耐えたわけである。すでに私の代でも(昭52卒)ボロボロだった。
田舎から送られてきたミカンなどの食料や衣類を詰めたダンボールを
個人専用の整理ケースとして使っていたのを懐かしく思い出す。







最後に戦前と昭和30年代の小平キャンパスの航空写真を並べてみる。
寄宿舎が建て替わった以外は、ほとんど変わっていないことがわかる。

以下、次号に続く。

写真で辿る小平の記憶 ❷

2022年1月15日  タグ: 沿革   コメントする

昭和40年代、小平キャンパスは大きな変革の時代を迎える。
まず昭和41年7月1日から、西武多摩湖線の最寄駅が変わった。
それまでは国分寺駅から1つ目の一橋大学駅(戦前は商大予科前駅)だったが、
2つ目の小平学園駅と共に撤去され、両駅の中間点に現在も使われている
一橋学園駅ができたのである。写真で辿ってみると・・







昭和42年から小平キャンパスの新築・改築ラッシュが始まる。
戦前に建てられた木造の体育館、図書館、一橋寮、弓道場が取り壊され、
わずか数年の間に次々と鉄筋コンクリート造の建物に変わっていった。
その凄まじい変貌は、昭和41年と47年の「建物配置図」を比べれば一目瞭然。
小平キャンパスは新時代を迎えたのだ。

昭42(1967)合併教室(1号館)
昭43(1968)新学生食堂(生協食堂、後に小平カフェテリア)
昭45(1970)新体育館 / 新館教室(2号館)/ LL教室 / 新図書館 / 職員宿舎
昭46(1971)新柔剣道場
昭47(1972)4階建2棟の新一橋寮






昭47(1972)
新一橋寮が竣工したこの年、もう1つの変化がある。
学生控所(部室)に並ぶ食堂の一部が取り壊され、生協に改築された。
昭和43年に新しい学食ができたので必要がなくなったということか。


昭48(1973)
新体育館と新一橋寮の間に50mプールができた。
戦前に造られたプールは写真で見る限り短いので、25mだったようだ。
さらに弓道場が撤去された跡地に、プレハブの部室が設置されている。
課外活動の部が増え、部室が足りなくなったためか?
アメフト部のプレハブ部室もあるので、活動を始めたのはこの頃か?
また、本館の外壁が黒っぽい色に塗られている。
学園紛争の頃、落書きがひどかったので塗られたという話もあるようだ。
いろいろわからないことが多いので情報を集めたい。




昭45(1970)〜 昭46(1971)
少し年度が戻るが、小平グラウンドも大きく姿を変えた。
それまでのサッカー場は玉川上水に並行してタッチラインが引かれ、
ゴールは東西に設置されていた。東ゴールの隣にあるシュート板は、
昭和28年にOB有志の寄付によって設置されたものだが、
およそ10年後にボロボロになり、昭和41年に修復されたようだ。





「建物配置図」には記載されていないが、OB諸氏の記憶によれば、
昭和45年の暮れから46年の春にかけて大規模な改修工事が行われたという。
ホッケー場は、撤去されたテニスコートの跡地に移動。
サッカー場は90度向きが変わり、ゴールは南北に設置され、
それに伴いシュート板も南側に新設された。
人工芝になった現在のサッカー場は少しワイドになったが、
新しいシュート板の位置は、50年前とまったく変わっていない。





以下、次号に続く・・・

写真で辿る小平の記憶 ❸

2022年1月14日  タグ: 沿革   コメントする

昭和50年代も変化が続く。
まず、昭50(1975)の「建物配置図」を見ると、
新しいテニスコート(6面)とバレーコート(4面)が設置されている。
そしてこの年以降、サッカー場とホッケー場が明記されるようになった。
理由はわからない。小平グラウンドは体育の授業も行われていたので、
大学側としてはサッカー部とホッケー部の専用ではなく、
他の学生も使用する運動場という認識だったのかも知れない。
なぜこの年から明記されたのかという疑問も残る。考え過ぎか・・

昭55(1980)
プレハブ部室がすべて撤去され、その跡地に福利厚生施設と合宿研修施設ができる。
その用途は不詳。また部室棟に並んでいた生協が取り壊されている。
福利厚生施設の1階に生協ができたのか?
合宿研修施設とは何か? 合宿で寝泊りできる部屋ができたのか?


昭57(1982)
戦前は寮の一部として、戦後は部室として使われ続けた旧学生控所が取り壊され、
新しく鉄筋コンクリート造2階建の課外活動施設(現部室)ができる。





そして、時代は平成へ。
30年の歳月は小平キャンパスを大きく変えたが、それで終わりではなかった。

平成8年(1996)5月に小平分校が廃止となり、授業が行われなくなった。
これを契機に小平キャンパスと学園西町は、サッカー部員にとって
練習や試合をしに行くだけの場所になってしまった。
昭和世代にとっては寂しい限りである。

平成11年(1999)から平成15年(2003)にかけて、
昭和の面影を宿す建物は次々と消え、小平国際キャンパスへと生まれ変わる。
その過程を年度順に記していくと・・

平12(2000)
特別教室や講堂が撤去された跡地に如水スポーツプラザができる。

平13(2001)
本館、1-2号館、語学ラボ、バレーコート、テニスコート、ホッケー場が撤去される。

平14(2002)
本館の跡地に国際共同研究センターができ、福利厚生施設が国際交流プラザになる。

平15(2003)
キャンパスの中央部に国際学生宿舎A〜E棟と小平国際ゲストハウス、さらに
ホッケー場の跡地に独立行政法人 大学改革支援・学位授与機構のビルが竣工。
そして5月、小平国際キャンパスの完成記念式典が挙行された。

平成元年度と平成16年度の「建物配置図」を比べてみると
その凄まじい変貌ぶりがよくわかると思う。

以下、令和3年(2022)現在の小平キャンパスの撮影が可能になり次第、
追記するつもりである。お楽しみに。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記