酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

竿代興志先輩、ご逝去

2023年3月27日  タグ: 訃報   コメントする

令和5年(2023)3月25日、
前酉松会会長の竿代興志先輩(昭46卒)が逝去されました。
生前は現役の活動をご支援いただき、
人工芝プロジェクトにも多額の寄付を賜りました。
深い感謝とともに、心からの哀悼を捧げます。

昨年からの相次ぐ先輩方の逝去に心が痛みます。
どうか皆さま、くれぐれもご自愛ください。

★前列左端が竿代先輩

高峯文世(昭43卒)
竿代さん逝去の報に悲しみが募ります。
彼は、私が4年の時の1年生で、十数人が入部して夏合宿前には
10人以下になった中で名門千葉高からの入部で、足は速くなかったが
頑張り屋のBKで堅実なプレーが印象に残っております。
その後、GKをやったり、マルチプレーヤーだったと聞いておりました。
主将をやり、現会長:緒方さんの前の「酉松会」会長を務め、
「一橋大ア式サッカー部」には多大な貢献をした功労者ですね。
数年前の三菱巣鴨でのOB戦・総会の後、近くの「居酒屋」で、
有田君、今は亡き清水幸君、竿代君と同期の関君と共に、
数人の後輩達と飲んで語ったのが最後になりました。

平成31年(2019)1月12日 0B総会&0B戦後 巣鴨の居酒屋にて

我々と共にプレーした後輩の訃報に
立て続けに接するのに心が痛みます。
謹んでお悔やみ申し上げます。

瀬戸 泰先輩、ご逝去

2023年3月10日  タグ: 訃報   コメントする

令和5年(2023)2月7日、
瀬戸 泰先輩(昭37卒)が逝去されました。
生前は現役の活動をご支援いただき、
人工芝プロジェクトにも寄付を賜りました。
深い感謝とともに、心からの哀悼を捧げます。

*後列右から2人目が瀬戸先輩

酉松会新聞 第16号 発刊!

2023年3月7日  タグ: お知らせ   コメントする

令和5年の酉松会新聞、第16号を発刊しました。
寄稿してくださったOBOG、現役部員の皆さん、ありがとうございます。
ラインアップは以下の通り。ぜひお読みください。

巻頭挨拶
⚽️ 緒方 徹 (昭49卒 会長):「日々是好日」
⚽️ 木村 義幸(平6卒):酉松会代表幹事就任挨拶
⚽️ 村上 信勝(昭36卒):小平人工芝グラウンド完成に寄せて

カタールW杯観戦記
⚽️ 樋口 哲司(昭59卒):行ってきました。カタール!!
⚽️ 福本 浩 (昭52卒):革命的 !?〝ホンダ解説〟の解説

海外便り
⚽️ 角井 朋之(平11卒):ミャンマーでの生活
⚽️ 木村 英生(平18卒):フランクフルトでのEnjoy Soccer生活
⚽️ 山崎 文佳(平26卒 MGR):ニューヨークおすすめ観光スポット
⚽️ 小泉 武広(平28卒):香港でのバルサ生活

百年史秘話
⚽️ 福本 浩 (昭52卒 編集長):甦る ! 商大サッカー部の古写真

戦いを終えて
⚽️ 加藤 紘基(4年 主将):悔しさと感謝が残った4年目
⚽️ 皆川 開 (4年GM ):「ア式」を紡いでいく
⚽️ 遠藤 慎之介(4年):変化、それでもア式はア式。
⚽️ 長田 陸 (4年):ア式生活の振り返り
⚽️ 佐藤 由都(4年):成長できた4年間
⚽️ 東明 建志(4年):棚から牡丹餅
⚽️ 澁谷 亮佑(4年):「学生主体」を考え直す
⚽️ 鈴木 春平(4年):失敗の日々
⚽️ 福嶋 謙志(4年):最高のア式生活
⚽️ 堀 伊吹(4年):ア式4年間を振り返って
⚽️ 宮津 佑介(4年):期待を超える
⚽️ 山本 怜央(4年):自分の実力を知った4年間
⚽️ 七海 碧 (4年MGR):ア式での学びに感謝

令和4年度シーズンに向けて
⚽️ 渡邉 直樹(新4年 主将 ):最大の挑戦
⚽️ 近岡 頌 (新4年 学生監督):成長を成果に

私の学生LIFE
⚽️ 海谷 俊輔(4年):留年の原因をまじめに考えてみた。
⚽️ 岩元 陽菜(4年MGR):私のバイトライフ
⚽️ 向井 友紀(新4年):ア式に費やす大学時代とは
⚽️ 大石 俊輔(新3年):私の小平キャンパスライフ
⚽️ 松田 宥之介(新2年):アシキのジョー

追悼
⚽️ 有志一同:逝きし仲間を偲んで

編集後記
⚽️ 福本 浩 (昭52卒 編集長):「小平」の歴史にたゆたう

清水幸男先輩、ご逝去

2023年3月4日  タグ: 訃報   コメントする

令和5年(2023)3月4日(土)午前6時、
清水幸男先輩(昭44卒)が逝去されました。
ご葬儀の日時は下記の通り。
なお故人の強い意志で、生花・香典等はお断りとのことです。

葬儀:3月9日(木)13:30〜15:00
場所:カトリック田園調布教会
〒145-0071 東京都大田区田園調布3丁目43番1号 03-3721-7271


前列左から2番目が清水先輩。
現役時代は副主将兼GMを務め、名FWとしても活躍されました。
卒業後は日本興業銀行、西武石油㈱に勤務されていました。
長年、現役部員の試合に熱心に通われ、
また人工芝プロジェクトにも多大なる寄付を賜りました。
謹んでお悔やみ申し上げます。

清水幸男先輩の訃報に接し、同期や後輩の方々から
追悼の言葉が寄せられました。以下に列記します。

有田 稔(昭44卒)
長兄の故清水征四郎さんと共に大学サッカー部への思いは熱く、
現役の試合には足繁く通い、いつも頭が下がりました。
コロナも収束しつつあり、そろそろ昭和44年卒の同期会でも
再開するかなと話していた矢先でもあり、
突然の訃報に言葉もありません。

山根言一(昭52卒)
清水幸さんが亡くなった!言葉が出ません。
有田さんのご紹介のとおり尊敬できる先輩でした。
ただただ、ご冥福をお祈りするしかできません。合掌

鈴木 茂(昭55卒)
ほんまにショックです。コロナ前は、現役のリーグ戦の応援で
10年間ほどよくご一緒して、試合後一杯やりながらサッカー談義に
花を咲かせたものです。応援席に座ることなく、コートの廻りを
うろうろしながら応援、分析されるのが幸男先輩のスタイルでした。
(腰が悪くて長く座っていられないとのことでもありましたが)
そんなに早く兄貴の征四郎さんの後を追わなくてもよかったのに、
残念です。ご兄弟で酉松会のメンバーで現役時代も重なっているなんて
他にあまり例がないのでは? 今晩は一人で献杯します。合掌

宮内正敬(昭47卒)
清水さんの訃報を頂くとは夢にも思っておりませんでした。
大変びっくりしました。清水さんは私が新入部員の時のグラマネで、
有田さんがキャプテンでした。初めてグラウンドに出た時のことを
今でも良く覚えております。新入部員はあの当時で12‐13人ぐらいで、
サッカーは今ほど人気がなかったと思います。練習の最後には、
ゴールラインからゴールラインまで約110メートルを行きはダッシュ、
戻りはランニングという「新入部員減らし?」のメニューがありました。
その時に笛を吹いておられたのが清水さんでした。
結局、夏合宿に参加した新人は4‐5人で上記のランニングが功を奏し(?)
見事に少なくなりました。私は、サッカーボールを蹴ったことがない、
ルールも知らないド素人でしたが、練習が厳しいという理由で
サッカー部に入ったので、辞める訳にはまいりません。
新人が減った理由は、厳しい練習もさることながら、当時の社会情勢、
就中学生運動が花盛りで、新人の中には「なんでこの時期に練習なんか
するのか」といった声も出ていましたが、「だったら辞めればよい」と
私は答えておきました。社会が騒然としていたのも事実です。
卒業後何十年もお会いできずに、このような悲しい知らせを聞くなんて、
やるせないですね。清水さん、大変厳しく且つ楽しい思い出を残して頂き
有難うございました。安らかにお眠りください。合掌

緒方 徹(昭49卒)
清水幸男先輩のご逝去のお知らせ、大変驚きました。
ショックが大きいです。有田先輩も書いていただいているように、
兄上の清水征四郎先輩(昭和41年卒)とお二人は本当に一橋の
サッカー部への愛情が深い先輩でした。征四郎先輩もそうなのですが、
特に幸男先輩は試合会場へ足を運んでくださった回数が大変多かったです。
現役に声をかけてくださったり、グラウンドやその後のOBの意見交換で
現役の試合ぶりへの思いや、酉松会の運営に直截なお話をして
いただきました。ご兄弟お二人共、人工芝の問題では折りに触れ
相談にのっていただき、色々とアドバイスや励ましもいただきました。
本当に感謝しかありません。お会いできなかったのが心に残ります。
こころから哀悼の意を表します。

山崎彰人(昭49卒)
幸さんと征四郎さんには現役のころから面倒をよく見てもらい、
社会に出てからも何かにつけて本当にお世話になりました。
コロナのせいでお目にかかれず、高峰文世先輩と一度飲もうと
言っていた約束も果たせず、心残りです。有田三兄弟、清水兄弟と
一橋ア式蹴球部の歴史に名を残す選手の思い出に思いをはせながら、
ただただご冥福を祈ります。合掌

大久保 寧(昭50卒)
本来であればサッカー部、ゼミ、勤務先の後輩であります私が
早く気付いて皆さんに御連絡すべきところでした。最後の最後まで
不肖の後輩で終わってしまったなとの思いで一杯であります。
まさかあの清水先輩が・・・、なんと言うことだろうか。
サッカーにおいては大変な理論家かつ左利きの闘将、
仕事の上では温厚な人柄から常に調整役を買って出て、
彼が居るだけで場が落ち着く、そんな方でした。
もうお得意の「はしご酒」で飲み歩かれる姿も見られません。
せめてあと1回は御一緒したかった。
そして多少は恩返しみたいな事もしてみたかった。
とにかく寂し過ぎます。合掌!

高峯文世(昭43卒)
清水幸男君の訃報に驚き、悲しみがこみ上げて呆然としております。
幸男君と最後にご一緒したのは昨年、駒沢での現役の対東大戦。
有田君と共に応援し、勝利の歓喜に浸った楽しい想い出です。
現役時代、幸男君は1年後輩で、家も近く、練習帰りは
兄の征四郎さんと共に一緒でした。小平の人工芝完成時には
私の同期の小林と幸男君と有田君の4人で視察。
我々の時代とあまりに違った素晴らしさに感激しました。その後、
汗まみれでジョギングした懐かしの玉川上水沿いを津田塾へと散歩。
そして恋ヶ窪駅から国分寺へ行き、ビールで食事を楽しみながら、
思い出を語り合ったこともありました。ここに幸男君の御霊が
安らかに天国へと、征四郎さんと共にお祈り申し上げます。

平成31年(2019)1月12日 0B総会&0B戦後 巣鴨の居酒屋にて

甦る! 商大サッカー部の古写真 ①

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

令和5年を迎えて間もない1月13日の夜、
私の元に、こんなメールが届いた。

“初めまして、酉松会のホームページを偶然見つけ、
ご連絡差し上げました。私の伯父に当たる人物が戦前の商大出身で、
サッカー部に所属していたようです。現在家族の古いアルバムの
写真の修復をしており、伯父のアルバムの中にサッカー部の写真を
見つけました(昭和13−17年?)。そのうちの1枚は酉松会の
「発掘!戦前のサッカー部の写真」のページにあった写真と同じでした。”
・・参照:〈発掘!戦前サッカー部の写真〉

“甲子園で行われたらしい大学選手権のハーフタイムの写真や、
紀元2602年(1942年 / 昭和17年)の選手章もありました。
現在まさに修復中なので合計何点になるかわからないのですが、
酉松会の資料編纂のお役に立てるようでしたらご一報ください。”

メールをくれたのは、山田 あきこさん。
彼女の伯父の名前は、山田 久寧(ひさやす)。
部誌『蹴球』の名簿を見ると、確かにその名があった!
しかも私の出身高校の大先輩でもあったのだ。何という不思議な縁!!
以下、山田先輩と記す。


*入部:昭和12年(1937)
*出身高校:旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高校)
*現住所:一橋寮
*帰省先:福岡県小倉市上富野

あきこさんによれば、ご先祖は愛媛の武家。
祖父(山田先輩の父)の代から東京に住んでいたが、
陸軍将校だった祖父は “ありえないレベルの転勤族” だったので、
子供たちは小学校だけで3回か4回変わっているという。そして、
伯父が中学入学のタイミングで赴任したのが栃木県の宇都宮。その後、
祖父は福岡県の小倉に転任したが、すでに高学年になっていたので
転校せず、宇都宮中学から大学を受験したのではないかと推測している。

山田先輩は上記『蹴球』四号に入部の動機をこう綴っている。


(原文ママ)
“大分時期を過ぎた頃誰の推めでもないのにヒョッコリと入部した。
七月の語學試驗も過ぎた頃寮生慰安として寮對抗の試合があった。
この時僕はルールも何も知らないのにハーフとして加はった。
で眞夏の暑い頃汗を流してグラウンドを走り廻る快味を始めて知つた。
何とその壯なる事よ。何とその男性的なる事よ。一度その力を知った僕は
日一日とサッカー戀しの思ひを、募らせるだけだった。折も折
父に「體を丈夫にしろ。ヒョロヒョロの體では實社會の落伍者だぞ」と
云はれて益々サッカーに對する愛戀の情に拍車を加へた。
かくて僕は入部した。本科へ進んでからの激烈な勉學に且つ
實社會へ行つてから最後の勝者たるに堪へる體格を作らんが爲に ”

実は、あきこさんはグラフィックデザイナー。
忙しいお仕事の合間を縫いながら、古ぼけた写真を一枚一枚
丁寧に修復して送ってくださった。しかも写真の裏には山田先輩が
記したキャプションがあり、いつ、どんな時に撮られたかがわかる。
これが本当にありがたい。以下、年代を追って紹介していこう。

【昭和13年 1938】
まずは酉松会のページにあったものと同じ写真から。


*10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別

修復された写真は驚くほど鮮明で、
当時のサッカー部員たちの表情、ボロボロの練習着にシューズ、
かなり歪んだ皮製のボールまでもが、生き生きとよみがえっている。
『60年史』によると、戦時中に使っていたボールは牛皮ではなく
豚の皮だったらしいが、写っているのは豚皮のボールか!?

こちらは11月6日、関東2部リーグvs立教大学戦後の写真。
裏には最強の敵である立教を2-0で破り、“一同踊り上って喜んだ” とある。
軍服の男性(応援に来たOBか)が2人いるのが当時の世相。
そんな中でリーグ戦が行われ、しかも笑顔があることに少しホッとする。
試合会場は表参道駅の近くにあった「青山師範学校(現東京学芸大学)」の
グラウンドだが、後ろの建物の窓から顔を出す学生や洗濯物が見える。
学生寮か? 鮮明な写真のおかげで、いろいろ推測できるのが楽しい。

次は、11月に小平の部室前で撮影された写真。
関東リーグ2部で優勝し、1部に昇格した年だった。
何の大会かは不明だが、たくさんのカップを誇らしげに持っている。
拡大してよく見ると、窓の桟に「サッカー」の白い文字がある!
部室名を表示したものだと思うが、それが「蹴球」ではないことが興味深い。
ごく自然に「サッカー部」と呼んでいたのだろう。85年も前の部員たちなのに
急に親しみが湧いてくる。お〜い!と声をかけたくなる。

【昭和14年 1939】
こちらも11月に小平の部室前で撮られた集合写真。
手ぬぐいを姉さんかぶりした部員が多くホウキもあるので、
大掃除をしたのかもしれない。また部室の前に草ボウボウの空き地がある。
実は、これがヒントになり長年の疑問が解けた。当時の部室は
小平予科分校のどこにあったのか、という疑問である。


それは、下の航空写真の右端中央にある建物だった。
南側に広めの空き地があるし、昭和12年度の「予科建物配置図」に
〈仮食堂及部室〉と記された建物なので、おそらく間違いないと思う。
この〈部室〉は戦争末期に小平分校を接収した軍によって撤去されたため、
戦後は南隣りにあった〈生徒控室〉が長く部室として使われた。


こちらは中野の「辰美野」という店で行われた卒業生の送別会の写真。
我々の時代「追い出しコンパ」と呼んでいた飲み会だ。
商大時代の写真によく登場する店で、サッカー部は常連だったようだ。
徳利とお猪口を手に皆ご機嫌である。

ただ、この写真に少し疑問が・・
山田メモには “14.11.21 送別会 後藤 岩崎” とあるが、『60年史』にも
同じ写真があり、キャプションは「昭和13年 納会」となっている。
前列中央に座るスーツ姿の二人は、上記の小平グラウンドの写真
“昭和13年10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別” の二人と同じで、
昭和14年の春に卒業しているはず・・どちらが正しいのか?
これは、山田先輩に聞かないとわからない(笑)

【昭和15年 1940】
1月27日、予科分校の本館の玄関前で撮られた集合写真。
山田先輩を含む予科3年部員7名の送別会で、前列が3年生、
その後ろに1〜2年生らが並んでいる。当時は予科チームのリーグ戦や
定期戦があったが、何のカップを手にしているのかは不明。
参考までに3枚目の写真は、山田先輩のアルバムにあった昭和12年撮影の
予科本館。まだ竣工して3〜4年しか経ってないのでメチャメチャ綺麗だ。
こんなお洒落な丸窓があったとは・・まったく記憶にない(笑)


余談だが、商大時代は学帽と学生服が制服だった。
戦後、一橋大学になってもしばらく続いていたようだが、
昭和30年代半ばの卒業アルバムぐらいから次第に制服姿が消えていく。
いつ、正式に制服廃止となったのだろう?

以下、次号に続く。