酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
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100年史③ 〜 東京カレッジリーグ始動

驚いたことに関東大震災の翌年、大正 13 年(1924)
ア式蹴球東京カレッジリーグ(関東大学リーグの前身)が始まる。
東京の大学と専門学校12校が、6チームずつ2部に別れて戦ったが、
何を基準に分けたかは不明。商大は2部で、1勝(vs東歯)4敗、5位に。

【1部】 早稲田・帝大・東高師・法政・慶応・農大
【2部】 一高・明治・外語・青学・商大・東歯(東京歯科医学専門学校)

その後カレッジリーグは、大正14年に3部制、昭和6年には5部制に拡大。
大学や専門学校にサッカー部が次第に増えていったことが伺える。

商大の戦績といえば、しばらくは2部で奮闘していたが、昭和5年に3部、
翌年には4部にまで降格してしまった。当時の大学は予科3年・本科3年で、
サッカー部の主力は予科が中心。本科の学生は指導役となっていた。
まだ同好会のような雰囲気で、練習も11名を欠くことが多く、練習なしで
試合に出場する選手もいたという。

しかし昭和7年から、まさにV字回復。快進撃が始まる。
猛練習に猛練習を積み重ね、3年連続でリーグ優勝を果たし、
昭和9年、どん底の4部から念願の 1部昇格 を成し遂げたのだ。



そのチーム再建の最大の功労者が、 長瀬 凱昭(東作)
肋膜炎を患いながらも医者と家族の反対を押し切って卒業まで練習や
試合に参加。優れた技術と卓越した統率力・ユーモアで部を牽引した。
後輩の鈴木 彰(昭13卒)は『60年史』に、こう記している。

“国立の本科から雨の日も風の日も休むことなく
石神井グラウンドに通って指導してくれた長瀬大先輩のことは、
決して忘れることのできぬ神にも近い尊い姿であった。”

・・注)神田一ツ橋にあった本科は、昭和5年に国立へ移転

長瀬は昭和9年に卒業し三菱鉱業に入社。しかし3年後に病が再発。
昭和12年10月21日、この世を去った。蹴球部時代に残した彼の言葉が、
後輩たちに語り継がれている。

“蹴球部員は皆ボールと恋愛せよ。熱愛せよ。
そして女性と恋を語るな……”

以下、次号に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

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