酉松会(ゆうしょうかい)とは、一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。
コロナ禍の中で迎える、終戦から75年目の夏・・
『60年史』の巻末に掲載されている酉松会会員名簿には、
10名の戦死あるいは戦病死された先輩がいる。
その中の1人、神野光司先輩(清一郎改 昭11卒)と
彼の息子さんにまつわる秘話を紹介したい。
神野先輩は、昭和5年(1930)に入部。
当時の商大蹴球部は低迷の極にあり、翌昭和6年には
東京カレッジリーグの4部にまで転落した。しかし、
翌年から3年連続でリーグ優勝し、昭和9年に1部昇格を果たす。
昭和9年は、小平グラウンドの歴史が始まった年でもある。
この映えあるチームをけん引した1人が、神野先輩だった。
卒業後、昭和13年に神野先輩は中支戦線へ出征。
昭和19年には沖縄へ。
そして昭和20年6月20日、沖縄本島の真壁で戦死された。
その時、彼には生後1歳余りの息子がいたのだ。
名前は匡司(ただし)。
戦後、神野匡司さんの母は夫の末弟に再嫁し、匡司さんは
叔父の養子となる。父の情報は一切封印されたまま育てられるが、
中学生の頃、祖母が涙ながらに真実を話してくれた。しかし、
その後も匡司さんは母と養父に気を使い、何も知らないふりをして
生きてきた。ただ「父の戻る場所」を守りたいという気持ちから
頑なに引越しを拒み、戦前と同じ場所に住み続けた。
それが、奇跡のような出会いを招き寄せた。
平成30年(2018)、長年にわたって一橋大学の戦没学徒を
調査している「一橋いしぶみの会」の代表・竹内雄介氏(昭49卒)が、
記録に残っていた住所を頼りに匡司さんの自宅を探し当て、
神野先輩の大学時代の情報をつぶさに伝えた。
父・清一郎がサッカー部員で、輝かしい成績を収めたこと・・
在学中に改名し、清一郎ではなく光司と名乗っていたこと・・
父が自分の名の1字をとって、息子の名前につけたこと・・
それは匡司さんにとって、齢75にして初めて知る父の姿だった。
当時の気持ちを綴った匡司さんの文章を
竹内氏が送ってくださったので、下記に掲載する。
そして昨日、令和2年7月31日、
酉松会ウェブサイトの存在を知った竹内氏のセッティングにより、
私は神野匡司さんご夫婦を小平グラウンドへ案内することになった。
昭和11年の卒業時に小平グラウンドで撮影された
神野先輩の写真がある。それから80年以上の年月が過ぎ、
サッカーコートの位置も周囲の環境も全く違っているが、
歴代部員の汗と涙が浸み込んだ、小平の土だけは変わらない。
匡司さんは、父が愛した小平グラウンドに初めて立った。
父が筆でしたためた息子誕生の記録を手に。
別れ際、「100年史」の編纂のために集めた神野先輩の写真と
部誌『蹴球』に寄稿された文章のコピーを渡すことができた。
なんとも不思議な、そして心温まる時間だった。と同時に
「100年史」の記録を残すことは酉松会会員だけのためではなく、
未来に生きる、その家族や知人・友人のためでもあると痛感した。
このような機会を与えてくださった「一橋いしぶみの会」と
竹内氏に心から感謝したい。
思えば、大正7年(1918)に世界中を襲ったスペイン風邪が、
ようやく収まってきたのは大正10年(1921)と言われ、
その年に我が一橋大学のサッカー部は生まれた。
100年後に世界は再びパンデミックに襲われたが、
来年には恐らくワクチンの普及が開始され、収まってくるだろう。
そして小平グラウンドは長年の夢であった人工芝になり、
サッカー部は次の100年に向けて新しいスタートを切ることになる。
稀有な符合を感じるのは私だけだろうか。
いずれにせよ、この厳しい時代を
常に「希望」を抱きながら乗り切っていきたいものだ。
酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記
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