酉松会(ゆうしょうかい)とは、一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。
〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜
令和5年を迎えて間もない1月13日の夜、
私の元に、こんなメールが届いた。
“初めまして、酉松会のホームページを偶然見つけ、
ご連絡差し上げました。私の伯父に当たる人物が戦前の商大出身で、
サッカー部に所属していたようです。現在家族の古いアルバムの
写真の修復をしており、伯父のアルバムの中にサッカー部の写真を
見つけました(昭和13−17年?)。そのうちの1枚は酉松会の
「発掘!戦前のサッカー部の写真」のページにあった写真と同じでした。”
・・参照:〈発掘!戦前サッカー部の写真〉
“甲子園で行われたらしい大学選手権のハーフタイムの写真や、
紀元2602年(1942年 / 昭和17年)の選手章もありました。
現在まさに修復中なので合計何点になるかわからないのですが、
酉松会の資料編纂のお役に立てるようでしたらご一報ください。”
メールをくれたのは、山田 あきこさん。
彼女の伯父の名前は、山田 久寧(ひさやす)。
部誌『蹴球』の名簿を見ると、確かにその名があった!
しかも私の出身高校の大先輩でもあったのだ。何という不思議な縁!!
以下、山田先輩と記す。
*入部:昭和12年(1937)
*出身高校:旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高校)
*現住所:一橋寮
*帰省先:福岡県小倉市上富野
あきこさんによれば、ご先祖は愛媛の武家。
祖父(山田先輩の父)の代から東京に住んでいたが、
陸軍将校だった祖父は “ありえないレベルの転勤族” だったので、
子供たちは小学校だけで3回か4回変わっているという。そして、
伯父が中学入学のタイミングで赴任したのが栃木県の宇都宮。その後、
祖父は福岡県の小倉に転任したが、すでに高学年になっていたので
転校せず、宇都宮中学から大学を受験したのではないかと推測している。
山田先輩は上記『蹴球』四号に入部の動機をこう綴っている。
(原文ママ)
“大分時期を過ぎた頃誰の推めでもないのにヒョッコリと入部した。
七月の語學試驗も過ぎた頃寮生慰安として寮對抗の試合があった。
この時僕はルールも何も知らないのにハーフとして加はった。
で眞夏の暑い頃汗を流してグラウンドを走り廻る快味を始めて知つた。
何とその壯なる事よ。何とその男性的なる事よ。一度その力を知った僕は
日一日とサッカー戀しの思ひを、募らせるだけだった。折も折
父に「體を丈夫にしろ。ヒョロヒョロの體では實社會の落伍者だぞ」と
云はれて益々サッカーに對する愛戀の情に拍車を加へた。
かくて僕は入部した。本科へ進んでからの激烈な勉學に且つ
實社會へ行つてから最後の勝者たるに堪へる體格を作らんが爲に ”
実は、あきこさんはグラフィックデザイナー。
忙しいお仕事の合間を縫いながら、古ぼけた写真を一枚一枚
丁寧に修復して送ってくださった。しかも写真の裏には山田先輩が
記したキャプションがあり、いつ、どんな時に撮られたかがわかる。
これが本当にありがたい。以下、年代を追って紹介していこう。
【昭和13年 1938】
まずは酉松会のページにあったものと同じ写真から。
修復された写真は驚くほど鮮明で、
当時のサッカー部員たちの表情、ボロボロの練習着にシューズ、
かなり歪んだ皮製のボールまでもが、生き生きとよみがえっている。
『60年史』によると、戦時中に使っていたボールは牛皮ではなく
豚の皮だったらしいが、写っているのは豚皮のボールか!?
こちらは11月6日、関東2部リーグvs立教大学戦後の写真。
裏には最強の敵である立教を2-0で破り、“一同踊り上って喜んだ” とある。
軍服の男性(応援に来たOBか)が2人いるのが当時の世相。
そんな中でリーグ戦が行われ、しかも笑顔があることに少しホッとする。
試合会場は表参道駅の近くにあった「青山師範学校(現東京学芸大学)」の
グラウンドだが、後ろの建物の窓から顔を出す学生や洗濯物が見える。
学生寮か? 鮮明な写真のおかげで、いろいろ推測できるのが楽しい。
次は、11月に小平の部室前で撮影された写真。
関東リーグ2部で優勝し、1部に昇格した年だった。
何の大会かは不明だが、たくさんのカップを誇らしげに持っている。
拡大してよく見ると、窓の桟に「サッカー」の白い文字がある!
部室名を表示したものだと思うが、それが「蹴球」ではないことが興味深い。
ごく自然に「サッカー部」と呼んでいたのだろう。85年も前の部員たちなのに
急に親しみが湧いてくる。お〜い!と声をかけたくなる。
【昭和14年 1939】
こちらも11月に小平の部室前で撮られた集合写真。
手ぬぐいを姉さんかぶりした部員が多くホウキもあるので、
大掃除をしたのかもしれない。また部室の前に草ボウボウの空き地がある。
実は、これがヒントになり長年の疑問が解けた。当時の部室は
小平予科分校のどこにあったのか、という疑問である。
それは、下の航空写真の右端中央にある建物だった。
南側に広めの空き地があるし、昭和12年度の「予科建物配置図」に
〈仮食堂及部室〉と記された建物なので、おそらく間違いないと思う。
この〈部室〉は戦争末期に小平分校を接収した軍によって撤去されたため、
戦後は南隣りにあった〈生徒控室〉が長く部室として使われた。
こちらは中野の「辰美野」という店で行われた卒業生の送別会の写真。
我々の時代「追い出しコンパ」と呼んでいた飲み会だ。
商大時代の写真によく登場する店で、サッカー部は常連だったようだ。
徳利とお猪口を手に皆ご機嫌である。
ただ、この写真に少し疑問が・・
山田メモには “14.11.21 送別会 後藤 岩崎” とあるが、『60年史』にも
同じ写真があり、キャプションは「昭和13年 納会」となっている。
前列中央に座るスーツ姿の二人は、上記の小平グラウンドの写真
“昭和13年10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別” の二人と同じで、
昭和14年の春に卒業しているはず・・どちらが正しいのか?
これは、山田先輩に聞かないとわからない(笑)
【昭和15年 1940】
1月27日、予科分校の本館の玄関前で撮られた集合写真。
山田先輩を含む予科3年部員7名の送別会で、前列が3年生、
その後ろに1〜2年生らが並んでいる。当時は予科チームのリーグ戦や
定期戦があったが、何のカップを手にしているのかは不明。
参考までに3枚目の写真は、山田先輩のアルバムにあった昭和12年撮影の
予科本館。まだ竣工して3〜4年しか経ってないのでメチャメチャ綺麗だ。
こんなお洒落な丸窓があったとは・・まったく記憶にない(笑)
余談だが、商大時代は学帽と学生服が制服だった。
戦後、一橋大学になってもしばらく続いていたようだが、
昭和30年代半ばの卒業アルバムぐらいから次第に制服姿が消えていく。
いつ、正式に制服廃止となったのだろう?
以下、次号に続く。
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