酉松会(ゆうしょうかい)とは、一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。
〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜
【昭和15年 1940】
この年は、我が部の101年の歴史の中で最上位の成績を収めた年だった。
関東1部のリーグ戦で早稲田・慶應・東大・明治の強豪に伍して戦い、
優勝の慶応に次いで2位を早大と分け合ったのである。
『100年史』編纂の時に写真を探したが、2枚しか見つからなかった。
しかし、山田 久寧(ひさやす)先輩のアルバムには多数残されていた。
まずは、昭和15年度シーズンの栄えあるメンバーの写真から。
“15.11.20 小平グラウンド 卒業生記念の為” とキャプションにある。
前列の8名が翌春に卒業する本科3年生。『蹴球』八号にも同じ写真が
掲載されているが、修復された写真の解像度が凄い! 拡大すると、
高橋道太郎先輩の頭のヘアバンド(戦前からあった!)、
ボロボロの膝当てにシューズ、ボールのほどけた結び目までわかる!!
ところで本科1年の山田先輩は・・“予は足を痛めて見学中” だった。
今も続く伝統の「三商大戦」の写真もある。
12月25日vs神戸商業大学戦のハーフタイムとグラウンドでの集合写真。
『蹴球』八号の戦績を見ると、前半2-2、後半1-1の引き分けで、
“前半強風下の爲押され気味 後半押しまくりチャンス多きも決まらず”。
選手や観戦に来たOB?も皆暗い表情で、納得がいかない試合だったようだ。
試合会場は「甲子園」とあるが、野球の甲子園球場ではなく、
「甲子園南運動場」のことで、関西屈指の芝生の競技場だった。
→ 参照:〈甲子園南運動場〉
神戸商業大学との試合後に「全朝鮮対関西戦」を見学(下左 詳細不明)。
翌26日には神戸三宮駅の近くにある「東遊園地」のグラウンドで
大阪商科大学と対戦。右の写真は、試合後に遊園地内で撮ったもの。
神商大戦のドローから奮起したのか、9-2で大勝した。ただし、
『蹴球』八号の戦績ではそうなっているが、写真裏の山田メモは、
“11-1で勝つ”。どちらを信用すべきだろうか(笑)→ 参照:〈東遊園地〉
珍しい写真がある。
この三商大戦では大阪の「スポーツマンホテル」に宿をとり、
夜は麻雀を楽しんでいたようだ。すでに日中戦争が始まっていたとはいえ、
日本国内には、まだ余裕があったということか。
ところで山田先輩は入部以来、真摯にサッカーと取り組んできたが
ずっとサブに甘んじ、リーグ戦に出たことがなかった。
その思いを部誌に綴っている。(原文ママ)
「一日蹴球を想ひ感有り」・・『蹴球』七号(昭和15年刊)
“文樂と蹴球部の行き方には関係がある。二人なり三人で
夫々、顏を手を足を、受け持って一つの人形として演ずるのである。
三人が實際に一人の人として動かなければ、人形は生きて來ぬ。
三人の間の氣合の合致が何よりも重大な契機になる。
左手の役をするべきウイングが己の職責を果さず、
足を勤めるサブが、試合に出場せざるの故に必死の闘を為さないならば
吾等のチームは一個の人形として完璧の演技を示さぬのである。
たゞ至らざるサブの身を嘆くのみ。”
「ゆらめき」・・『蹴球』八号(昭和16年刊)
“先人の蹈み分けた道を尋ねてたゞ一途に經て來た五年は
詩ではなかった。繪ではなかった。
撤しきれぬ悔恨と徹しきらうとする努力の墨繪卷であつた。
岐路に出會し迷路に蹈み込み乍らやうやつと此處まで辿り着いた。
不徹底な者を見ると我知らず「文句を言ふな實行しろ」と怒鳴りたい。
一途に生きんとすることが眞實であるならば、
私は蹴球することに於て眞實をみたい。”
昭和16年の春、山田先輩は父を亡くす。
リーグ戦でプレイする姿を父に見せることはできなかった。
受け止めきれない哀しみを、この寄稿の中で綴っている。
“私は本春愛する父を失った。暗い。
すべて暗い破烈した日の惱みと惡夢は連續して私を苦しめた。
私は父の最後の息を見届けた限りに於て死の傍観者であった。
死は最後の瞬間の平和であった。何の感覺も持たない之の世から
彼の世への靈魂の移轉は徹底しつつある貴い姿であった。
併し死そのものは私のものではなかった。私は冷たい傍観者であつた。
自ら體驗しなければ理解されない死は私の態度を冷笑するのみであつた。”
【昭和17年 1942】
前年12月に太平洋戦争に突入し、次第に戦時色が強まる中、
大学の卒業が9月に繰り上げとなり、毎年秋に行われていたリーグ戦が
春に実施されることになった。そのリーグ戦の「選手章」も残されている。
これを持っていれば入場料は無料。ちなみに「2602」とは、
初代神武天皇が即位した年を元年とする明治政府が定めた暦で、
昭和17年は「皇紀2602年」に当たる。
そして、まさにこの年に最上級生となった山田先輩は、
ついに念願のリーグ戦デビューを果たす。
写真は5月23日に明治神宮外苑競技場で行われた3戦目の対慶應戦。
CKを蹴っている背番号7の選手が、山田先輩である。
しかし、この試合、0-5で大敗してしまった。
“敵 C.K.3本のC.K.中 2本后半に決められる ダラシない試合だった
慶応の溌剌に比して何といふ情けなさ 帝大戰から以后 落ち目になった商大
誰の罪でもない 皆で 苦境を乗り切らう”
“俺は此の試合を最後にリーグ戦から退いた
4月29日のリーグ第一戦対早稲田に(1-1/3-1)と勝った (不明) は
未だに忘れられぬ 大学リーグ一部にレギュラーとして初陣
始めての神宮には余り補はれず 好センダーリング 最後の一点は
俺が中盤で拾って少し持込み左へ大きく廻すを永倉ペナルテイラインから
逆隅に鮮に決めたもの 一生忘れられない”
山田先輩にとって最初で最後のリーグ戦は、
初戦の早稲田に4-2で勝利したものの、次の東大戦以降は3敗1分。
リーグ最下位で関東2部から1部に降格という残念な結果で終わった。
そして9月、山田先輩は、6年間通い続けた小平のグラウンドを去る。
卒業後は海軍に入隊。
『蹴球』九号の名簿には「呉局気付軍艦八雲」「横須賀局気付」
「板橋部隊山田隊」などとある。軍艦八雲に乗務し
日本沿岸の警備にあたっていたようだが、詳細はわからない。
そして・・『60年史』の名簿には、悲しいかな、
「↑山田久寧 昭20.12.26(戦病死)」と記されているのみ。
最後に、昭和17年6月1日に小平グラウンドで
卒業アルバム用に撮られた2枚の写真を紹介したい。
“対立教戦前 卒業アルバム用の為に八百長で写す タックルは村木
俺が之の写眞では負けてゐる 一瞬 止まってゐるように見へるのは
dribble して來てコロブ前の一時”
波乱の時代を生きた山田久寧先輩、そして同期の先輩方に、
謹んで哀悼の意を捧げるとともに、貴重な写真を修正し
提供してくださった山田あきこさんに心より感謝を申し上げたい。
この記事へのコメントはこちらのフォームからどうぞ